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第10話 8月7日 恐れないこと(夏織)

 名刺の住所をたよりに、夜の道を歩いた。


 商店街の店は、もうほとんど灯りを落としている。わたしと祐太郎さんの足音だけが、シャッターの列に低く反響する。

 祐太郎さんが半歩まえを歩いて、ときどき、大丈夫か、と振り返る。そのたびに、うなずいた。血は、もう止まっている。


 その店は、通りのつきあたりに、ぽつんと灯りをともしていた。

 間口のせまい、古い構えの店だ。引き戸の硝子の奥で、温かい色の電球が灯っている。軒に木の看板が下がっていて、柳ケ瀬庵、と彫ってある。


 戸を開けたのは、昼間に見た藍色の着流しを着た背の高い男の人だった。わたしたちを見ても、驚かない。まるで来るとわかっていたみたいに、どうぞ、とだけ言った。そのまま、中へ通してくれた。

 通されたのは畳の部屋だった。


 壁ぎわに古いタンスが並んで、棚には、時代を感じる古道具が静かに置かれていた。ガラスのケースの中で、竹の骨のうちわが、水にでも濡れたように光っている。

 祐太郎さんと並んで座ると、店主さんはお茶を二つ出してくれた。湯呑みはふぞろいなのに、どちらも品がよかった。


 店主さんは少し濡らした手ぬぐいを渡してくれた。


「口元に。マスクよりは、楽でしょう」


 血のにじんだマスクを外して、膝の上に畳んだ。かわりに手ぬぐいを、そっと口元にあてた。ひんやりとした感触が、少し心を落ち着かせてくれる。

 店主さんは湯呑みを置いてから、正面に座り直した。それから、両手を畳について、深く頭を下げた。


「まず、お詫びをさせてください」


 声も、背中も、静かだった。


「昼間は、連れが失礼をいたしました。あの子に、悪気があったわけではないんです」


 畳に置かれた指が、まっすぐそろっている。頭は、なかなか上がらない。


「……いいんですっ」


 わたしのほうが、先にうろたえた。手ぬぐいを持つ手が、行き場をなくす。


「あの子は、悪くないです。ただ、心配してくれただけみたいでしたし」


 言いながら、店を飛び出した自分のことを思い出した。あのとき、あの子はわたしの手に名刺を握らせた。力になれるかもしれない、と言ってくれた。


「わたしが、勝手に飛び出したんです」


 店主さんは頭を上げて、わたしを見た。それから、少しだけ目元を緩める。


「そう言っていただけると、あの子も救われます」


 隣で、祐太郎さんが座り直す気配がした。膝の上のこぶしが、さっきより緩んでいる。


「……あの子は」


 祐太郎さんが、ようやく口を開いた。


「あの子は、おらんのですか」

「今日のことをだいぶ反省したみたいで。珍しく早くに帰りました」


 店主さんは、湯呑みの縁を指でなぞった。


「代わりに謝るのは、大人のずるさですね」


 ずるい、と言われても、怒るところはどこにもない。

 店主さんは、思い出したように背すじを伸ばした。


「申し遅れました。この庵の主で、柳ケ瀬太郎と申します。昼間の連れは、来栖美琴といいます」


 やながせ、たろう。

 口の中で、音にしないでなぞってみた。名刺にあった店の名前は、この人の名前でもあったのだ。


「……石橋、祐太郎です。こっちは――」

「夏織さんですね。昼間、お店で伺いました」


 覚えていてくれたことに、返事が半拍おくれた。


八百津(やおつ)、夏織といいます」


 わたしはあらためて、頭を下げた。

 太郎さんのかたわらに、古い新聞が開いてあるのが目に入った。

 その紙面に、大きな見出しが組んであった。


 『口裂け女の噂 児童らに広がる』。


 日付は、1979年の1月26日。

 どうしてこの人は、こんなに古い新聞を開いていたのだろう。

 太郎さんは、わたしの口元をまっすぐ見た。じっと目をそらさないのに、いやな感じは不思議としなかった。


「痛みますか」


 わたしは、うなずいた。うなずいてから、川べりからずっと痛みが続いていたことに気がついた。


「その傷は、都市伝説の顕現かもしれません」

「けんげん?」


 祐太郎さんが訊き返した。


「ええ。口裂け女の呪いだと、僕は考えています」


 ――わたしの傷の、話だ。


「口裂け女って……。そんなん、ただの都市伝説やろ!」


 祐太郎さんの声が、静かな畳の部屋に大きく響く。太郎さんは、怒らなかった。


「都市伝説は、ただの作り話ではありません」


 湯呑みを、音もなく畳に置いて、太郎さんは話を続けた。


「過去の凄惨な事件、当事者の無念、人々の恐怖の噂。それらが混ざり合った時、物理的な呪いとして現れることがあります」


 凄惨な事件。無念。恐怖の噂。

 一つ一つの言葉は、ふしぎなくらい静かだった。自分の傷の下にそういうものが埋まっていると言われても、確かめようがなかった。


「呪いは、解けるんですか」


 聞いたのは、わたしだった。

 太郎さんは、すぐには答えなかった。かわりに、指を一本、立てた。白くて長い指なんだな、と場違いなことを思った。


「一つ、約束してください。これから何を見ても、恐れないこと」

「恐れない?」

「恐怖は、呪いを深めてしまいますから」


 約束。

 守れるかどうかより先に、守りたい、と思った。

 わたしと祐太郎さんは、顔を見合わせた。それから、同時にうなずく。


「それと、もう一つ」


 太郎さんの顔が、ふっと柔らかくなる。


「今度、けいちゃんの作り方を教えてください」


 本当にただ食べたいだけなのか、場をゆるめるための言葉なのか。どちらでもいい気がして、少しだけおかしかった。

 張りつめていた部屋の空気が、音を立てずに緩む。祐太郎さんが、拍子抜けした顔で太郎さんを見ている。


「……よろしく、お願いします」


 二人で、畳に手をついて頭を下げた。


「ご依頼、お受けいたします」


 太郎さんは、わたしたちよりも深く、頭を下げ返した。背すじのきれいなお辞儀だった。


「今夜は、ゆっくり休んでください」


 帰りぎわ、太郎さんは戸口まで送ってくれた。引き戸のあく音が、からからと乾いている。振り返ると、店の灯りはもう、戸のすきまに細く残るだけだ。

 夜の風は、来たときより少し軽かった。

 今夜は、眠れる気がした。


 *


 そして8月7日、日付が変わる1時間ほど前。


 岐阜市に住む住民を震撼させ、46年ぶりに蘇る口裂け女の恐怖。


 呪いの連鎖の始まりを告げる、二件目の殺人事件が起こる。


 口裂け女の名は、夏織といった。


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