第11話 8月8日 二件目の朝
朝の光が、雑居ビルの隙間に斜めに差し込んでいた。
昨夜の熱が残る路地に、朝だけが新しい。換気ダクトはまだ眠っていて、頭の上の非常階段が細い空を区切っている。どこかの部屋で目覚ましが鳴り、すぐに止んだ。
自転車を押した会社員が、近道のつもりで路地へ入ってきた。残業明けの頭は、まだ半分眠っている。毎朝の道だった。段ボールの陰を過ぎようとして、足が止まる。
積まれた箱の陰から、足が投げ出されていた。
「ひっ……」
自転車が倒れた。後ずさった背中が、反対側の壁に当たる。会社員は震える指で、電話の番号を押した。
「あの、人が倒れとって。……いや、たぶん、その、生きとらんです」
通報を終えても、その場を離れられなかった。倒れた自転車の前輪だけが、路地の入り口で空回りを続けている。
*
1時間後、路地の入り口には規制線が張られていた。
黄色いテープの内側に、青いシートが立てられている。鑑識の白い服が段ボールの周りにかがみこみ、ストロボの光がときどきビルの壁を白く打つ。崩れた空き瓶のケースの横に、番号の札が立てられていく。規制線の外には人が少しずつ立ち止まり始めて、スマホを構える手も、もう二つ三つ見えた。
シートの脇に、漣馨がしゃがんでいた。
しゃがんだ膝が鳴る。夜勤明けの身体は、朝の光に少し遅れてついてくる。
「漣さん、もういいじゃないですか……」
後ろで、長屋梨花が顔を背けていた。手帳を胸の前で握って、視線だけが規制線の外へ逃げている。
「長屋」
「……はい」
「顔を背けとるうちは、何も見えん」
「わかってます」
「わかっとるやつは、そう言わん」
返事までの息が、一つぶん長かった。殺しの現場は、長屋には二度目になる。一度目は6月の、あの川沿いだった。
長屋は覚悟を決めたように、向き直った。
漣は、シートをめくる前に一拍だけ待つ
遺体にかけられたシートをめくる。
横たわっているのは老人だった。耳まで裂けた口元が、そのまま乾いている。
ひっ、と短い悲鳴を上げて、長屋が手帳を落としかけた。落とさなかったのは意地だけに見えた。それでも、書く手は止めていない。
「身元は」
「上着の財布に、免許証があったようです。矢内明義、69歳。市内の団地で一人暮らしだったようです」
「家族は」
「いまのところ、身寄りは出てきていません」
矢内明義。
漣はその名前を、口の中で一度だけ繰り返した。それから立ち上がって、路地の奥を見る。行き止まりのブロック塀。崩れた段ボール。争ったにしては静かすぎる現場だった。叫び声を聞いた住民も、いまのところ出ていない。傷のほかに目立った外傷はなく、財布も残っている。
「物盗りやないな」
「……はい。財布の中身も、そのままです」
胸の奥で、嫌な音が一つ鳴っていた。長くやっていると、鳴る事件と鳴らない事件がある。これは鳴るほうだった。
「6月の事件と、同じやな」
「長良川沿いの、一件目ですか」
漣は額の汗をぬぐった。朝だというのに、路地の空気はもう蒸れ始めている。
「報道規制まで敷いたのに同じ手口や。過去にも似たようなヤマがあったらしい」
「……46年前の、口裂け女ですか」
長屋の声が、そこだけ小さくなった。
「資料室で、当時の資料だけ見ました。あれ、本当にあった事件やったんですね」
「その噂で、市内どころか日本中の学校が騒ぎになった」
46年前、漣はまだ生まれていない。それでも資料室の古いファイルの厚みだけは、指が覚えていた。噂という奴は事件よりも早く走る。走った先で、別の何かを連れてくる。あのころ子どもだった世代が、いまは孫のいる歳だ。それでも口裂け女という五文字は、この土地でだけ妙な湿り気を持って残っていた。
「同じ噂が立てば、模倣犯もわいてくるかもしれん」
「でも、二件目が出ました」
伏せて、規制して、それでも二件目は出た。しかも同じ口元で。
「もう伏せきれん」
本部へ上げれば、報道も追ってくる。追ってきた報道が、噂に薪をくべる。わかっていて、それでも上げるしかなかった。
漣は無線を手に取った。ざり、と朝の雑音が鳴る。
規制線の外を、出勤の人の流れが遠く過ぎていく。誰も、路地の奥までは見ない。見ないまま、いつもの一日へ歩いていく。入り口では、毛布を掛けられた会社員が、若い警官に同じ話を三度させられていた。
「連続殺人や。本部へ上げるで」
無線の向こうが、一瞬だけ静かになった。
漣はもう一度だけ、青いシートを振り返る。朝の光の中で、場違いなくらい鮮やかな青だった。
「長屋。今日から寝られると思うな」
「もともと、寝てません」
悪くない返事だった。漣は規制線の内側へ戻る。仕事は、ここからだった。




