第12話 8月8日 ワタシ、キレイ?(夏織)
昨日の夜は、深く眠った。
夢も見なかった。太郎さんの言ったとおり、ゆっくり休めた。休めたはずなのに、朝の身体はどこか重い。
午前のうちに、祐太郎さんと柳ケ瀬庵を訪ねた。調べたことを話したいと、太郎さんが店へ伝えてくれていたのだ。佐和子さんは伝票から顔も上げずに、行っといでと手を振った。
「店のことはええから。祐ちゃん、ちゃんと送ったってな」
「送るも何も、行きも帰りも一緒ですけど」
「そういうのを送る、て言うんよ」
商店街のアーケードは、いつもの朝の顔をしている。それなのに、すれ違う人の話し声が、どこか同じ方向を向いている気がした。路地。口が裂けとった。断片だけが、耳に引っかかって通り過ぎていく。
昼の柳ケ瀬庵は、夜とは違う顔をしていた。
畳の上に、古い雑誌と本が山にして積まれている。黄ばんだ週刊誌。図書館の判子のある郷土誌。付箋だらけの文庫本。その真ん中で、美琴ちゃんがノートを開いていた。こんにちは、と頭を下げると、正座のまま勢いよくお辞儀が返ってくる。おでこが、ノートにつきそうだった。
「昨日は本っ当にすみませんでした!」
「……大丈夫です。ありがとう」
「無神経でした……でも!頼ってくれてうれしいです」
美琴ちゃんの膝の上のノートは、手書きの字と図でぎっしり埋まっている。日付、矢印、貼りつけた新聞のコピー。オカルト研究会の会長で、部員は一人きり。それだけの会が、この山の資料を集めたらしい。
「みこちゃん。前置きは短めにね」
「わかってます。……えー、それでは始めます」
太郎さんいわく、まずは呪いの伝承をよく知ることが第一歩、なのだそうだ。これからその講座のようなものが始まるらしい。
美琴ちゃんは正座を直して、ノートをこちらへ向けた。
「口裂け女の噂が広まったのは、1979年の岐阜からと言われています」
「岐阜からなんですか」
「そうなんです! 全国区の怪異で、発生地がここまではっきりしてるのって、実はけっこう珍しくて」
声が少し弾んだところで、太郎さんが湯呑みを置く音がした。美琴ちゃんは咳払いを一つして、続けた。
「大きなマスクをした女が、道で人に訊くんです」
ページには、女の人の絵が描いてあった。マスクと、長い髪。
「ワタシ、キレイ?って」
お茶をすすろうとした手が、止まった。
きれい。
花火の夜、自分の口から出た言葉だった。あのとき胸の奥でちくりと鳴ったものが、いまはもっと深いところで鳴っている。湯呑みを、そっと畳に置いた。
「キレイと答えれば口を裂かれて殺されます」
「じゃあ答えへんかったら?」
祐太郎さんが訊いた。
「追いかけられて殺されます」
「どっちでも、あかんのか」
「逃げ方は、二つだけ伝わっています」
美琴ちゃんは、指を二本立てた。
「ポマードと三回唱える。他には、べっこう飴を投げると、拾っている間に逃げられるとも言われています」
「なんでポマードと飴なんや」
「それは諸説ありますが、決まった答えはありません」
「諸説あるて、便利な言葉やな」
「わからないことをわからないままにしておくのも、大事なんです」
怖い話をしているのに、怖がらせようとする言い方ではなかった。事実を、順番に置いていく言い方だった。落ち着いた口調のわりに、ノートをめくる指は速い。この子は本当に、この手の話が好きで、本気なのだと思う。
美琴ちゃんが、スマホをこちらへ差し出した。
「今朝から、またSNSの投稿が増えました」
画面いっぱいに、動画が並んでいる。岐阜によみがえる口裂け女の怪異。白い文字が画面の中で躍っていた。夜道を歩く動画。廃屋に入っていく動画。笑い声。再生の数字は、どれも万の桁だった。
知らない人たちが、面白そうに、口裂け女の名を呼んでいる。
「都市伝説や呪いは、語られるほど力を持ちます」
太郎さんが、湯呑みを置いた。今日も長袖で、袖口から出た左手だけで湯呑みを扱っている。
「人が恐怖を口にするたび、呪いはより深まっていきます」
「……止める方法は、ないんでしょうか」
「噂そのものを消す方法は、僕は知りません」
マスクの上から、口元を押さえた。押さえた布の下で、傷あとが熱い。画面の中の笑い声が、全部この傷につながっているのだと言われた気がした。
美琴ちゃんが、ノートの日付を指した。
「夏織さんが見つかったのは、6月18日でしたよね」
「……はい」
「その同じ日に長良川で変死体が見つかっていて、噂では口が裂けていたそうです」
「殺されたのは、前日の夜だろうね」
太郎さんが、静かに言った。
――前日の、夜。
わたしが山の中で倒れていた夜でもあるのだろうか。
「夏織さんが呪いを受けたであろう日と最初の事件が、同じ日に起こってる。偶然とは考えにくいです」
「みこちゃんの予想では、事件と呪いには何か関係があると」
「はい。順番はわかりませんけど、同じ夜に起きたことだと思います」
わたしの始まりの日と、知らない誰かの終わりの日が、ノートの上で隣り合っていた。
「そして太郎さんも知っての通り、今日の朝また市内で変死体が見つかった事件がありましたよね。だとすると事件が起こったのは昨日の可能性が高いです」
「だから夏織さんの傷も深まったと」
昨日。
川べりで、ふさがっていたはずの傷から血が流れた。あの夕方のことを、身体が先に思い出す。マスクの内側の、乾いた血の匂いまで。
太郎さんが、こちらへ向き直った。
「呪いを解くには今起こっている連続殺人事件を解決して、犯人を捕まえる。今のところ、それが唯一の道です」
「捕まったら、傷も消えるんですか」
「約束はできません。ただ、呪いが深まるのは止まるはずです」
祐太郎さんが、隣で小さく息を吸った。何か言いかけて、やめたのがわかった。
犯人。口の中で、音にしないで繰り返してみる。わたしの知らないところで誰かが人を殺して、そのたびにわたしの傷が深くなる。
膝の上で、ハンカチを握りしめる。
捕まえてください、と言うかわりに、わたしは深く頭を下げた。




