第13話 8月8日 亥の正刻
昼下がりの路地の入り口に、和傘が一本開いていた。朝の騒ぎを聞きつけた野次馬は、昼にはもう散っている。
規制線の外に立つ太郎の頭上で、藍色の傘が日を弾いている。その横で、祐太郎が落ち着かなげに立っていた。テープの向こうでは、鑑識の姿もまばらになっている。
手帳をしまいながら、漣が近づいてきた。
「太郎。なんでお前が、こんなとこにおるんや」
「知り合いから、頼まれごとをされまして」
太郎が目配せをすると、祐太郎が慌てて頭を下げた。
「石橋、祐太郎です」
漣も、合わせて頭を下げる。それから太郎に向き直って、渋い顔をした。
「お前が来るとろくなことにならん気がするわ」
「前は感謝されましたけど」
「感謝はしたが、二度と会いたないとも思た」
その後ろから、長屋が現れた。
「漣さん。民間の方を入れるんですか」
「前に世話になったことあるやつや」
「柳ケ瀬太郎といいます」
差し出された名刺を、長屋が受け取る。
「柳ケ瀬庵……拝み屋?」
「呪いやの妖怪やの、そういう胡散臭い噂の専門家みたいなもんや」
「胡散臭いは余計です」
長屋の顔が引きつって、一歩下がった。名刺を持つ指が、端をつまむ持ち方に変わっている。
「刑事が怖がっとって、どうするんや」
「……怖がってません」
下がった一歩は、戻らなかった。
太郎が、傘を少し傾ける。
「死亡推定時刻を、教えてもらえませんか」
「捜査情報や。言えるわけないやろ」
「大垣のときは、教えてくれましたよ」
大垣、の一言で、漣の眉が動いた。周りをうかがってから、声を落とす。
「……昨夜の、22時から23時の間。被害者は69歳で、名前は矢内明義や」
「助かります」
「なんか出たら、必ず俺に回せ。お前が持っとっても、なんの証拠にもならん」
「わかっています」
「漣さん。そろそろ本部に行かないと」
長屋にうながされて、漣は路地を出ていった。去りぎわに一度だけ、太郎の傘を振り返る。
人のいなくなった規制線の内側に、昼の静けさが戻ってきた。
太郎は、規制線をくぐった。
「ええんですか? 勝手に入って」
「よくはないですね」
「よくはないって」
太郎は答えるかわりに、和傘をたたんで祐太郎へ預けた。
「そこで、待っててください」
懐から取り出されたのは、15センチほどの盤だった。四角い地盤の上に、丸い天盤が重なっている。古い漆の色をした、見たこともない道具だった。
太郎は路地の中央に立ち、目を閉じる。
それから、千鳥足のようにゆっくりと歩き始めた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
歩きながら、指先が空に九本の線を切る。九歩目を強く踏み下ろして、両手で盤を回した。
「戌申の亥の正刻、人定の時」
九つ目の文字で、路地の空気が一段静かになった。
祐太郎には、何一つわからなかった。わからないまま、目だけが離せずにいる。
太郎の目が、ひらかれた。
その瞳が何を映しているのかは、傍からはわからない。太郎はしばらく誰もいない路地の奥を見て、それから確かめるような足どりで歩き出す。段ボールの脇を過ぎ、ブロック塀の手前で折れ、見えない何かの跡をたどるように進んでいく。
祐太郎が、慌ててついていった。
路地を抜けた先に、細い水路があった。
金属の側溝蓋が並ぶ、暗い流れだった。水は浅く、底の泥がゆっくり流れている。太郎の足は、その蓋の一枚の前で止まった。
右手が、袖の中で握り込まれる。しばらくそのままでいてから、太郎は左の袖をまくった。
「手伝ってくれますか?」
「あ、はい」
二人がかりで、側溝蓋を外した。蓋は見た目より重く、持ち上げると、下から水の匂いが上がってくる。
太郎は左手を、暗い水へ差し入れた。
のぞきこむ祐太郎の前で、引き上げられたのは手のひらに収まる大きさの折り畳み式の鏡だった。
「それ、なんなんですか」
太郎は鏡を開いて、鏡面を確かめる。水に流されて、何もついていない。
「もしかしたら犯人が落としたものかもしれません」
「なんで、こんなとこに」
「捨てたのか、落としたのか。今はまだ、どちらとも言えません」
言いながら、懐から袋を出して鏡をしまう。
「あの、さっきのは?」
「六壬神課という陰陽術ですよ。呪いの残滓を追うことができるんです」
「りく……なんやって?」
「まあ占いみたいなものですよ」
「占いで、こんなもんが出てくるんですか」
「出てくるときは、出てきます」
袋を懐にしまい、太郎は立ち上がった。
その背中を、祐太郎はじっと見た。着流しの肩は薄く、力のありそうな身体ではない。それなのに、この人がさっき路地の真ん中に立っていた数十秒だけ、あの場所は違う場所になっていた。
「太郎さん」
「はい」
「あんた、何者なんですか」
水路の水音だけが、間を埋めた。
「柳ケ瀬庵の、ただの店主です」
太郎は振り向いて、祐太郎のほうへ手を差し出した。
「それより、夏織さんのことを考えましょう」
祐太郎は少し迷ってから、和傘をその手に渡した。
*
夜の柳ケ瀬庵で、太郎は漣からの連絡を受けていた。かすかな明かりだけが、土間に細く落ちている。
「お前が見つけた鏡、鑑識に回したけどな。なんも出とらん」
漣の声は、疲れている。
「指紋もですか」
「水に浸かっとった時間が、長すぎたんやと」
帳面に、太郎は鏡、と書いた。書いた字の上へ、静かに線を引く。
「犯人の持ち物だったんでしょうか」
「人を殺すときに、鏡を持ち歩く理由がわからんな」
「……ひとまず僕の方でも調査を進めます。また何かあったら」
受話器を置くと、柳ケ瀬庵は夜の静けさに戻った。
帳面の上で、線を引かれた鏡の字だけが、消えずに残っていた。




