第14話 8月8日 電柱の陰
夜の8時を回ると、商店街の人通りは急に細くなる。アーケードの照明が、一列おきに落ちる時間だった。
はごろもキッチンの店先で、佐和子はシャッターを半分まで下ろしていた。売れ残りは今日も三つで、明日の仕込みの数は頭の中でもう決めてある。レジの音、金庫の音、暖簾を外す音。閉店の音は、順番まで決まっていた。
今日は一日、客の口から物騒な話ばかり聞いた。昼どきの主婦たちも、夕方の勤め帰りも、話題は一つきりだった。
「路地で人が死んだんやて」
「口が裂けとったらしいわ」
「そんなん、昔の噂の話やろ」
「それが今度は本当なんやて」
怖いねえ、と言いながら、誰の声も少し弾んでいる。ひとごとの怖さは、甘いのだ。それが昔から、少し嫌いだった。
帰りじたくの夏織に、余った漬物を持たせる。
エプロンを畳んで、夏織が店先へ出てくる。
「お先に失礼します」
いつもの、深いお辞儀だった。
「気ぃつけて帰りなね」
マスクの上の目が、笑って応えた。この目の笑い方を、うちの店で覚えたのだと思うと、悪い気はしない。
遠ざかっていく後ろ姿を、シャッターに手をかけたまま見送る。白い半袖が、夜の通りに小さくなっていく。
そのとき、向かいの電柱の陰で何かが動いた。
目元まで下ろした、古びた帽子をかぶった男。夏の夜には暑すぎる、色のあせた上着。歳は若くない。立ち姿の膝の緩みで、それはわかった。
男はじっと、夏織の去った方向を見ている。息をひそめている、というのがぴったりの立ち方だった。顔は帽子の陰でわからない。わからないのに、視線の向きだけははっきりとわかった。
佐和子の手が、シャッターの取っ手の上で止まった。
客ではない。通行人でもない。長く店先に立っていると、通りを行く人の足の向きで、用のある人とない人の区別がつくようになる。
佐和子は目を細めた。
男が、佐和子の視線に気づいた。
帽子を深くかぶり直して、電柱の陰から離れる。急がない足どりで、夏織とは反対のほうへ歩き去っていった。
去ったあとの電柱の根元だけ、夜が少し濃く見えた。
通りに、また誰もいなくなる。自動販売機の音だけが、低く続いていた。
佐和子はシャッターから手を離して、エプロンのポケットから電話を出した。出してから、少しのあいだ画面を見たまま迷った。
警察、という言葉が先に浮かぶ。浮かべてから、しまい直した。何をされたわけでもない。立って、見ていただけだ。それで警察を呼べば、事情を訊かれるのはあの子のほうになる。マスクの理由から、順番に。
大事にはしない。怖がらせもしない。それでも、一人にはさせない。
できるのは、それくらいだった。それくらいで、たぶん足りる。
時計を見る。9時前。まだ起きている時間だ。
佐和子は、番号を呼び出した。呼び出しの音が三つ鳴って、つながる。
「祐ちゃん。ごめんね、急に」
「佐和子さん? どうかしました」
「明日なんやけどシフトに入ってもらってもええ?」
「明日ですか。ええですけど、なんかありました?」
「仕入れが多くてね。一人やと持てんのよ」
「それ、いつもは一人で持っとるやつですよね」
電話の向こうの声は眠たげで、それでも嫌がる色はなかった。
「詳しいことは、店で話すわ」
「……はい」
言葉が足りていないのは、向こうにもわかったはずだった。それでも祐ちゃんは、それ以上訊かない。
電話ごしに言える話と、言えない話がある。帽子の男の話は、後者のほうだった。
切ってから、もう一度だけ夜の通りを見た。
電柱の陰には、もう誰もいない。
そのことを確かめてから、佐和子は残りのシャッターを下ろした。いつもより、静かな手つきになった。




