第15話 8月9日 夜道の散歩(祐太郎)
ゆうべの電話は、シフトの話だけで切れた。詳しいことは店で、という言い方が、佐和子さんらしくない。
そんなことを思いながら鉄板に火をつける。
氷を乗せると、むせ返りそうな水蒸気が広がる。丁寧に端からこすり始めた。しばらくして、佐和子さんが両手いっぱいの食材を提げて入ってきた。慌てて半分を受け取る。キャベツの箱が、ずっしりと重い。
「ごめんね、ありがとう」
「ええですよ。今日、夏織さん休みなんですか?」
「そういう訳ちゃうんよ。祐ちゃん、今月のシフトって変えてもええ?」
「なんでですか」
「夏織ちゃんと、上がりを合わせたってほしいんよ」
俺は食材を冷蔵庫にしまい始めた。しまいながら、頭の中で今月の予定を数える。数えるまでもなく空いている。卒論のゼミは週一で、あとは店と家の往復だ。
「昨日の晩、あの子をじっと見つめとる男がおったんやわ」
手が、止まった。
「男?」
「帽子を深くかぶって顔を隠しとる怪しい男」
「どのへんでですか」
「向かいの電柱。あの子が角を曲がるまで、ずっと見とった」
言葉にすればそれだけの話が、胃の底に重かった。
「警察に、言うたほうがええんやないですか」
「大事にしてあの子を怖がらせたないんよ。それに昨日は私が見とることに気付いたら逃げてったで」
「逃げるってことは、後ろ暗いってことやないんですか」
「せやね。せやけど、それを説明する側にあの子を立たせたないんよ」
その一言で、俺は黙った。詳しい事情を訊かれるのは、見られたほうの夏織さんだ。想像したら、反論の続きが出てこなかった。
佐和子さんは残りの食材を、俺に渡した。
「送り迎え、頼めるやろか」
受け取った袋は、さっきより重く感じた。断る理由は、初めからない。
「……わかりました」
「夏織ちゃんには、言わんといてな」
「言いません」
知らないままでいさせたい、というのが佐和子さんの考えで、俺も同じだった。でも、それでいいのかどうかは、正直わからないままでいる。
*
その日から、俺は夏織さんと夜道を並んで歩くようになった。
街灯の下を通るたび、二人の影が伸びて、縮む。夏織さんは半歩下がって歩く癖があって、俺はそのぶん歩幅を緩めた。
自販機の前で足を止めて、麦茶を二本買った。一本を渡すと、深いお辞儀が返ってくる。
「麦茶一本で、そんなに下げんでええって」
「……癖なんです」
「ええ癖やけど、腰痛めるで」
夏の夜の麦茶は、冷たさが半分で、もう半分は立ち止まる口実だった。
草むらで虫が鳴くと、夏織さんは足を止めて耳を澄ませる。
「これ、なんの虫ですか」
「……虫は、くわしくない」
「意外です。田舎の人は、みんな知ってるのかと」
「岐阜を田舎て言うたな」
マスクの上の目が、細くなった。俺は「今度調べとくわ」と言った。今度、と嬉しそうに繰り返されて、それだけで調べる理由になった。
雨の晩は、コンビニで傘を一本買った。
「一本でいいんですか」
「俺のは家にあるで」
半分は、嘘だった。相合傘の距離は、半歩下がる癖のせいで、いつもより近くなった。
アパートの前まで来ると、夏織さんは深く頭を下げて、階段を上がっていく。二階の窓に灯りがつくまで、俺は動かない。灯りがついてから、来た道を戻る。
戻る道で、背後の暗がりを何度も振り返った。電柱の陰。駐車場の車のあいだ。自販機の光の届かない場所。
――どこにおる。
帽子の男は、あれから一度も見ていない。見ていないことが安心なのかそうでないのか、俺にはまだわからなかった。
*
何日目かの夜、アパートの階段の下で、夏織さんが足を止めた。
「毎晩、遠回りになっちゃいませんか」
「散歩や。腹ごなしになる」
言った先から、我ながら苦しい言い訳だと思う。
「私の……呪いのせいですか?」
マスクの上の目が、まっすぐこっちを見ていた。
「別にそういう訳ちゃう。卒論も順調やし、もうちょっとシフト増やしたいっていうのもあったしな」
順調は、少し言い過ぎたかもしれない。
「祐太郎さんは、大学生でしたよね」
「4年や。教育学部」
「先生に、なるんですか」
俺は黙って、夜空を見上げた。
「……親が、二人とも教師なんやわ」
「じゃあ、三人目ですね」
「三人目、な」
教育学部を決めたのは俺だが、選んだのが俺なのかは、たまにわからなくなる。願書を出した日、母親は何も言わずに判子を押した。
「向いてそうですか?」
少し、間を置いた。教壇に立つ自分を想像してみる。何度やっても、エプロン姿の自分のほうが先に浮かんだ。
「けいちゃんを、うまいて言われる方が好きや」
マスクの下で、夏織さんが小さく笑った。
「……そっちの方が向いてると思います」
「そんな簡単に言うてくれるな」
「簡単じゃないですよ。ちゃんと考えて言いました」
「あんたに言われると、なんか照れるな」
言ってから、本気で照れていることに気付いた。夜でよかった。耳の赤さは、夜には見えない。
夏織さんが、階段を上がっていく。その足音が消えるまで、俺は動かなかった。二階の窓に灯りがついて、カーテンが閉まる。
誰もいない。いないのが、いちばんいい。
帰り道、俺はもう一度だけ、背後の暗がりを振り返った。




