第16話 8月12日 ハンカチの染み(祐太郎)
8月に入ってから、店は昼も夜もよく回っていた。物騒なニュースが続くと、外で食べる人が減って弁当が売れる。佐和子さんは複雑な顔で、それでも仕込みを増やした。
「今日はよう出るね」
「本当ですね」
「こういう出方は、あんまり嬉しないわ」
言いながら、佐和子さんは次のタレを仕込み始める。
ピークが終わって、厨房にはキャベツを刻む音だけが残っていた。
まな板の上で、包丁は勝手に動く、はずだった。包丁仕事で手元が狂ったことは一度もない。
その横を、夏織さんが通り過ぎた。
売り場の弁当を数えて、いつもの小さな紙に書きつけに行く姿を、目が勝手に追っていた。
「……っ」
包丁が、まな板の角で跳ねた。
落ちた包丁が、床で高い音を立てる。左手の人差し指の先に、赤い血がふくれ上がってきた。痛みは、少し遅れてやってきた。
布巾を探して、手を伸ばす。
その手を、つかまれた。
夏織さんの手だった。俺の手首を両手で持って、傷口を確かめる。それからエプロンのポケットから、あのハンカチを取り出した。
白い、刺繍の入ったハンカチ。
「待って。それ、大切な」
「じっとしててください」
「いや、それはあかんて」
「動かさないで」
夏織さんに迷いは、どこにもなかった。ハンカチはたたまれたまま、俺の指に押し当てられる。
白い布に、みるみる赤がにじんだ。古い茶色の染みの隣に、新しい染みが並んでいった。
あのハンカチが何なのか、俺は知っている。
6月に見つかったとき持っていた、たった一枚。名前の元になった、たった一つのもの。
それを使うのに、この人は迷わなかった。
押さえる手は、離れない。俺はその横顔を、黙って見ていた。
胸の中で、何かの置き場所が変わった音がした。
夏織さんの視線が、ふと動いた。
押さえた手の先、俺の左腕。まくった袖から出た、古い火傷の痕の上で、目が止まっている。
何も、言われなかった。訊かれもしなかった。
ただ、見て、それから俺の目を見た。どちらも口をひらかないまま、時間だけが濃くなっていった。
「その火傷ね。小さい頃からやて」
佐和子さんの声が、割って入った。
「うちに来た頃は真夏でも長袖着とったんよ」
「佐和子さん」
「隠すことないやん。誰も笑わんよ」
止めようとした声は、間に合わなかった。
佐和子さんは救急箱から絆創膏を出して、夏織さんに渡した。
「祐ちゃん、なんか照れてない?」
「照れてません」
「顔に出とるよ」
言い残して、佐和子さんはさっさと奥へ引っ込んでいく。
――出とるんか。
奥で、笑う気配がした。
夏織さんが、小さく笑った。マスクの上の、あの笑い方で。
ハンカチが、そっと外された。血は、もう止まりかけている。
夏織さんは絆創膏の包みを破いて、俺の指に巻いてくれた。端を少し折り返すやり方は、病院で覚えたのかもしれない。
赤の染みたハンカチが、畳み直される。
「……ハンカチ。洗って返すわ」
「うん」
夏織さんは何もなかったみたいに、ハンカチをポケットにしまって売り場へ戻っていく。
「祐太郎さん」
「ん」
「明日、絆創膏替えますから、見せてくださいね」
俺は絆創膏の巻かれた指を、しばらく見ていた。それから落ちた包丁を拾って、洗い場へ持っていった。
血の染みは、洗って落ちるだろうか。心配だけが、あとから遅れてやってきた。
切ってよかった、はさすがに違うが、近いところに気持ちはあった。




