第17話 8月12日 紙飛行機(夏織)
夕方の河原へ行こうと言い出したのは、祐太郎さんだった。
シフトが終わると、たまには腹ごなしや、と先に歩き出す。散歩と腹ごなしは、この人の便利な言葉らしい。それでも、誘ってくれた理由はなんとなくわかっていた。
この何日か、わたしはうまく笑えていなかった。
テレビも、お客さんの話し声も、口裂け女の話ばかりだった。誰かが殺されるたびに、わたしの傷は深くなる。太郎さんの言葉を思い出すたびに、眠りは、浅くなっている。
河原に出ると、風が川の匂いをつれてきた。並んで座ると、間に一人ぶんの距離があいた。花火の夜と、同じ距離だった。
祐太郎さんが、紙袋から鮎菓子を出した。先に自分のを、しっぽからかじる。
「うまいで」
言いながら、もうこちらへ背中を向けていた。
見ないでいてくれる合図が、いつのまにか、こんなに自然になっている。わたしはマスクを外して、菓子を手に取った。
「頭のほうがおいしいんですよね」
「よう覚えとるな」
「教えてもらったことは、忘れません」
「大したこと教えとらんけどな」
背中が、少し笑った。わたしも笑った。甘さが、ゆっくりほどけていく。祐太郎さんのおばあちゃん直伝の食べ方は、今日もちゃんと甘かった。
*
少し離れた河原で、男の子が紙飛行機を飛ばしていた。
歳は八つくらいだろうか。投げるたびに、飛行機はすぐ鼻から落ちる。拾っては投げ、そのたびに口をとがらせていた。
気がついたら、マスクを戻して立ち上がっていた。
「新しい紙、ある?」
男の子は、びっくりした顔でわたしを見上げた。それから、リュックから折り紙を一枚取り出してくれる。
「これでええ?」
「ありがとう」
紙を受け取る。
手が、勝手に動いた。
縦に折って、開いて、角を中心線へ。そこまではふつうだった。そこから先の折り方を、わたしは知らないのに、指は迷わなかった。斜めに返して、翼の先を小さく折り上げて、胴の真ん中に浅い折り目を一本通す。
見たこともない形が、手の中でできあがっていく。
誰かに教わったはずだった。その誰だけが、どこにもいない。
「へんなの」
「そう?」
「羽根、まっすぐやないもん」
「こうするとよく飛ぶんだよ」
言ってから、自分の言葉に驚いた。わたしはそれを、どこで知ったのだろう。
「いいから。ほら」
男の子が、投げた。
紙飛行機は、すうっと風に乗った。さっきまでの飛行機とは、別の生き物みたいに飛んでいく。
「すげえ!」
男の子は歓声を上げて、飛行機を追いかけて走っていった。夕日の中を、小さな背中が遠ざかっていく。
祐太郎さんが、隣に来ていた。
「今の、どこで覚えたん」
わたしは、自分の両手を見た。手のひらは、いつものわたしの手だった。それなのに、さっきの指の動きだけが、わたしのものではない気がする。
「……わからない。手が覚えてた」
頭のどこにもないものを、手だけが覚えている。わたしの中には、わたしの知らないわたしが、まだ眠っている。
「怖いか」
「……少し。でも、うれしくもあります」
「うれしい?」
「わたしにも、前があったってことなので」
祐太郎さんは、何も言わずに川のほうを見た。
「向こう岸まで届きそうやったな」
「届くといいな」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。誰に言ったのか、自分でもわからない。川の向こうは、夕日で燃えていた。
わたしは、祐太郎さんへ向き直った。
「ねえ、祐太郎さん」
「ん?」
「わたし……」
言いかけて、口をつぐんだ。
この気持ちに名前をつけたら、いまのこの距離が変わってしまう。呪いの解けていないわたしには、変えていい距離なのかわからない。
「……ううん。なんでもない」
「なんでもないことを、そんな顔で言うか?」
「言います」
「そうか」
祐太郎さんは、それ以上訊かなかった。訊かないでいてくれる人に、わたしはまた助けられていた。
*
帰り道の住宅街は、虫の声でいっぱいだった。街灯の下を、並んで歩く。
「あの子、飛ばせるようになりましたね」
「夏織さんのほうが先生に向いてそうや」
「……そうでしょうか」
少しだけ、うれしかった。
うれしいと思った次の一歩で、足が止まった。
口の中に、熱が走る。
――また、だ。
熱く、裂けるような痛みが走る。マスクの上から口元を押さえたが、指の間から温かいものが伝った。アスファルトに、赤い点が落ちる。
恐れないこと。
太郎さんとの約束を思い出した。息を吸って、それでも膝から力が抜けていく。恐れないでいることと、恐れなくなることは違うのだった。
「夏織さん?」
振り返った祐太郎さんの顔が、変わった。
「太郎さんとこ行くで! 連れてったる」
「歩けます」
「歩かんでええ」
腕が回されて、地面が離れる。祐太郎さんは走り出した。
揺れる視界の端で、赤い点が点々と道に落ちていくのが見えた。
広い背中だった。休憩室で見た、あの背中だ。テレビへ向いてくれた背中に、わたしは頬をぴったりとつけてみた。少しだけ汗の匂いと、味噌の香りがした。
温かい。
そう思ったところで、視界がどんどん暗くなっていった。




