第65話 8月18日 崩れる日常(夏織)
柳ケ瀬庵の奥の間で、わたしは目を覚ました。
障子の向こうが白い。朝になっていた。
昨日の夜のことは、切れ切れにしか覚えていない。スマホの画面いっぱいに出た速報。頬を裂いていく熱。電話をしたら駆けつけてくれた、祐太郎さんの背中の匂い。
気がついたら、この部屋の布団に寝かされていた。
壁にもたれて、祐太郎さんが眠っている。腕を組んだまま、口が半分開いていた。それなのに、眉だけが寄っている。
音を立てないように、布団の上で身体を起こした。頬の下で、何かが引き攣れる。ガーゼの下の傷が、きのうより深くなっている。指で確かめて、すぐに後悔した。
今日は、昼からのシフトだった。
枕元に、わたしの鞄が置いてある。祐太郎さんが持ってきてくれたのだろう。鞄を持ち上げようとしたが、持ち上がらない。
腕に力が入らなかった。鞄を手繰り寄せ、はみ出していたエプロンを手に取る。
――もういつもの日々は戻ってこないのかもしれない。
漠然とした不安がわたしの胸をよぎった。
わたしは気持ちを落ち着かせるためにエプロンに刺繍されたはごろもの文字を、そっと指でなでた。
そしてスマホで佐和子さんの連絡先を呼び出し、通話ボタンに触れる。
「もしもし、どないしたん」
「すみません。今日は……出られそうにないです」
「ええんやて、そんなん」
佐和子さんの声は、電話でもお店と同じ大きさだった。
「昨日の夜、祐ちゃんからも電話あったわ。休める時にゆっくり休まなあかんよ」
「本当に、すみません……」
「祐ちゃんも今日は貸したるわ。うちは一人でも回せるでね」
「……すみません」
「はよ元気になって戻ってくるんやで。看板娘が私ひとりじゃ足らへんわ」
電話の向こうで、いつもの佐和子さんの笑顔が浮かんだ。
わたしは謝る代わりに、お礼を言ってから電話を切ると、そのままスマホでネットニュースを検索してしまった。
表示された見出しを見て、後悔してしまう。
『口裂け女の再来』『狂人の部屋に迫る』『46年前の悪夢、再び』
――捕まったのに。
あの人が捕まれば、終わると思っていた。傷も、これ以上は広がらないはずだった。
指が勝手に画面を送っていく。どの記事も、同じ言葉から始まっていた。
口裂け女。
読むたびに、頬の奥が熱を持つ。
わたしはスマホを伏せて、目をつぶった。
*
昼を過ぎたころ、美琴ちゃんがタライと新しい手ぬぐいを運んできてくれた。
太郎さんはそっとガーゼをはがし、新しいものに取り換えてくれる。そしてわたしの口元の傷を見ると、痛みはないかと心配してくれた。
わたしは謝ろうとして、やめた。きっとみんなが求めているのは謝罪の言葉なんかじゃない。
夕方になると、障子の白が、橙色に変わった。通りのほうから、子どもの声が聞こえる。
「……口裂け女って……」
言葉の切れ端だけが、風に乗って届いた。頬の熱がまた濃くなる。
祐太郎さんが額の手ぬぐいを替えてくれて、その冷たさが気持ちよかった。
「夏織さん、しんどかったら寝てええで」
「……はい」
まぶたが勝手に下りてくる。眠いのとは、少し違った。もっと深いところから、ゆっくり誘われていくようだった。
祐太郎さんが、もう一度わたしの名前を呼んだ。
返事をしたつもりの声は、音にならなかった。




