第64話 8月18日 遠藤の妄執
取調室の遠藤は、背筋を伸ばして座っていた。
机に手錠が触れても、音を立てないように置き直す。うつむきもせず、まぶしがりもせず、ただ順番を待つように正面を見ている。
「6月17日の夜、二十代の女性が一人殺されとる」
向かいの漣が身を乗り出して、机に両手を置いた。
「回りくどいことは無しや。……殺ったんは、あんたか」
遠藤は机の上で、ゆっくりと指を組んだ。
「そうや」
あっさりとした、世間話の声だった。漣は一拍おいて、背もたれに体を預ける。
「ずいぶん素直やな」
遠藤の口の端が上がった。
「部屋の地図や。赤い印の横に、写真を剥がした跡があったな」
「よう見とるの」
「何を貼っとった」
片側の頬だけを動かして、遠藤は少し黙った。
「……大事なもんですわ」
取調室の壁の一面は、大きな鏡になっている。
その裏側の部屋は、照明が落としてあった。暗がりの中に、取調室の光だけが四角く嵌まっている。
ガラスを隔てた側に矢内は立っていた。別室で待っていたところを、長屋が案内してきたのだった。付き添う長屋には、その背中が昨日よりまっすぐに見えた。かたわらで、小さく頭を下げる。
「取調べ中にすみません。確認だけ、お願いします」
矢内は、ガラスの向こうの男を見た。
「……遠藤です。間違いない」
天井のスピーカーから、漣の声が続いている。
「なんで出所して、また同じことをやった」
「誰も覚えてなかったからや」
長屋が矢内へ向かって、出口を手で示す。
「ご協力、ありがとうございました」
矢内は動けずに、ガラスを隔てた先にいる遠藤を見つめていた。
「口裂け女は46年前に、わしが生んだんや」
スピーカーから聞こえる声に、狂気が宿り始める。
「わしが好いとった女の口を裂いて」
矢内は、ガラスへ一歩近づいた。
「矢内さん」
長屋が呼んでも、振り向かない。
「好きやった女を、殺したんか」
「わしの気持ちに応えてくれへんかった女の顔を、めちゃくちゃにしたろ思ってな。口を裂いたったんや」
矢内の両手が、ガラスについた。胸との間で、麦わら帽がつぶれていく。ガラスは、矢内の息で白く曇り始めていた。
「面白いもんや。どっかでのたれ死んだ思うたら、口裂け女の噂が流れ始めよった」
遠藤の声が、嘲笑するように響く。
「なんでそこで、終わりにせなんだんや」
ふっと、遠藤の顔から、にやけたように張り付いた笑みが消える。
「好いとる女に、長生きしてほしい思うんは当然やろ」
膝から、矢内が崩れ落ちた。
床を打つ鈍い音に、長屋が青い顔で駆け寄る。
「出ましょう。……すみませんでした」
長屋はスピーカーのつまみを絞った。それでもガラスの向こうで、遠藤の口は動き続けている。
肩を貸されて、矢内は暗い部屋を出ていった。手の中で、麦わら帽はつぶれたままだった。
*
夕方の県警の玄関前で、太郎たちは取り調べの終わりを待っていた。
自動ドアが開いて、矢内が出てくる。
「矢内さん、お疲れさまでした」
美琴が歩み寄った。
矢内は少しだけ頭を下げたものの、足を止めることはなかった。
「矢内さん?」
太郎の呼びかけにも、うつむいたまま通り過ぎていく。つぶれた麦わら帽が、その手にあった。かぶらないまま、夕方の日差しの中を遠ざかっていく。
太郎と美琴は、顔を見合わせた。
「私が行こう」
東雲が言って、矢内の背を追っていった。二つの背中は駐車場の端で並んで、それきり角の向こうへ消えた。




