第60話 8月16日 預かりもの
夜の柳ケ瀬庵に、集まった四人。
閉店後のはごろもキッチンで佐和子の誕生日を祝ってから、夏織と祐太郎はここへ来た。
仕事上がりの夏織は、畳んだエプロンを膝の脇に置いている。隣の祐太郎は、出された茶を一息に空けた。美琴が急須を置いて定位置に座り、太郎は膝の上で帳面を開いている。
「46年前に行方不明になった女性、朝比奈夏織さん」
夏織の肩が小さく動いた。
「口を裂かれた彼女が、おそらく口裂け女の呪いの根源です」
「日誌にあった、矢内って人は」
「朝比奈さんの恋人でした。被害にあった晩、助けを求められて……それを、拒絶しました」
畳が、鳴った。
「なんやそれ!」
祐太郎が立ち上がっていた。
「好きな人がそんな目に遭うて、助けを求めてきたのに、なんでや!」
太郎は、何も言わなかった。怖かったんや、というあの声を伝えても、この怒りの正しさは一分も減らない。
「……篠崎さんは、46年探しとるんですよ」
探し続けた老人と、逃げ続けた老人。46年の重さの違いに、祐太郎は憤りを隠せずにいる。
夏織は手の中のハンカチをじっと見ていた。
視線が畳の帳面の五文字へ動く。朝比奈夏織。それから、また手の中のハンカチへ戻った。
「夏織さん……このハンカチの、落とし主でしょうか」
うつむいたまま、口が開かれる。
「私がこれを持っているせいで、皆さんを巻き込んだのでしょうか」
祐太郎がまた腰を落とした。
「巻き込んでなんかない」
「でも」
「俺が勝手に、守りたいと思っとるだけや」
夏織の膝の上で、手が震えていた。
その手の中のハンカチを美琴が見ている。隅の、色の褪せた赤い糸の『夏織』の二文字。美琴の目が、帳面の名前と見比べた。
「太郎さん。これが朝比奈さんの持ち物だったとしたら」
「……うん」
太郎はハンカチへ目をやった。
「発見されたとき、夏織さんの持ち物はこれ一枚だった。見つかったのは八百津の山の中。朝比奈さんの届出も、八百津町からだった」
太郎の視線に気付き、夏織がハンカチをそっと握りしめる。
「ハンカチが、呪いの依り代になっている可能性が高い」
「よりしろ?」
祐太郎が湯呑みを置いて聞き返した。
「想いが宿って、運ばれていく器のことです。強い無念は、持ち主の品に残るって言われてます」
美琴が答える。
「夏織さんは山の中でこれを拾って、呪いごと受け取ってしまったのかもしれない」
太郎は夏織へ向かって左手を差し出す。
「夏織さん。しばらく、これを僕に預けてもらえませんか」
ハンカチを握る夏織の手から、少しだけ力が抜けた。
指さきが刺繍の二文字の上で少しだけ迷う。
「……はい」
「これを祓うことができれば、呪いも解けるかもしれない」
「でも……どうやって?」
美琴の問いに太郎は首を振った。
「わからない。呪いの成り立ちも、なぜ夏織さんだったのかも、わからないことがまだ多すぎる。……わからないまま手を出して呪いを暴走させたら、取り返しがつかない」
「取り返しが、つかない……」
夏織の声が細くなる。
「だから、一つずつ解決していきましょう」
太郎は棚から桐の箱を出した。蓋の内に、柳ケ瀬庵の屋号の焼き印がある。布を敷き、ハンカチを畳んで納め、蓋をする。その丁寧な動作を、夏織はじっと見ていた。
「何から始めるんや?」
「矢内さんに、証言をお願いします。7月に遠藤から、夏織さんを誘い出せと持ちかけられて、断って、脅された。……それを警察に話してもらえれば、脅迫の疑いで遠藤を調べる口実になる」
美琴が身を乗り出した。
「でも矢内さん、喋ったら口を裂くって脅されてるんですよね」
「だから、守り抜くと約束できる人が要る。……東雲さんには、もう頼んであります」
ハンカチを入れた箱が棚に納められる。
「こっちから、動きましょう」
太郎の声に、迷いはなかった。行灯の明かりが、四人の顔を順に照らしていた。
*
カーテンを閉め切った部屋に、テレビの光だけが瞬いていた。
部屋の中央に、壁を見つめている遠藤茂の姿があった。
壁一面に、口裂け女の切り抜き。古いものは茶色く焼け、新しいものは切り口が白い。遠藤の46年分の想いが、隙間なく貼り重ねられていた。その中央に岐阜の地図。赤い印が、一つだけ打たれている。
地図の横には、一枚の写真が貼られている。
遠藤の手が写真を画鋲ごとはがした。
写っているのは、はごろもキッチンで働く夏織の姿だった。
飴の棒が口の端で小さく揺れる。
写真は二つに折られ、胸ポケットの奥へ深くしまいこまれた。
遠藤は台所へと向かい、引き出しから包丁を取り出して、丁寧に研ぎ始めた。
窓から差す廊下の灯りが、遠藤の顔を不気味に照らし出す。
畳の上に、飴の包み紙がいくつも散らばっている。どれも同じ、べっこう色をしていた。




