第59話 8月16日 知らんほうがいい顔
喫茶店の奥の席は、冷房がよく効いていた。
矢内の対面に、太郎と美琴が座っている。東雲は少し離れた窓際の席で、クリームソーダとプリンを並べていた。五十鈴はコートに残った。絵にふさわしいタイトルが浮かばないのだという。
矢内は帽子を膝に置いている。
太郎は帳面を開いた。
「朝比奈夏織さんを、ご存じですね」
矢内はすぐには答えなかった。目の前のコーヒーに口をつける。カップを置く音が、思いのほか大きく鳴った。
「……大学時代に交際しとりました」
「失踪の前に、何があったのかを聞かせてください」
美琴の声は静かだった。
「当時警察にも話したはずや。何も知らんと」
声をとがらせて拒絶する矢内に対し、太郎が目を細める。
「あなたが殺される理由が、そのことに関係していたとしてもですか?」
矢内が目を見開いて、太郎を見た。
やがて観念したように矢内は口を開いた。
「……12月の、初めの晩やった。下宿の戸を叩く音がしてな」
膝の上で、両手が組まれる。
「開けたら、血のにじんだ包帯を顔に巻いた夏織が、立っとった」
「それで?」
「……わしは、追い返した」
矢内は帽子を取った。置き場を探して、結局また膝に戻した。
「怖かったんや」
顔が上がった。46年かけて言い訳を全部使い果たした人の、残った顔だった。
「そのあと警察が来た。捜索やて、大ごとになっとった。……それを知って、余計に怖ぁなってな。何も知らん、て言うてしもた」
美琴が何かを言いかけて、のみこんだ。
太郎が、帳面を閉じる。
「もう一つ。遠藤茂という人に、心当たりはないですか」
矢内の顔が上がらなくなった。
「……ない」
「大学の、後輩だったはずです」
美琴が言った。それでも矢内の顔は上がらない。膝の上の帽子が、両手の中で握りしめられていた。
太郎は懐から式盤を取り出した。
「太郎さん」
美琴の声には、はっきりとした警告が込められていた。
太郎は答えずに式盤を左手にのせる。
「僕の目を、見ていてください」
式盤が矢内の目の高さへ上がる。天盤の縁を、指が一本静かに回し始めた。
「遠藤茂との関係は?」
太郎の瞳が黒く沈む。
*
――夏の柳ケ瀬商店街のアーケード。
喫煙所の柱の陰に、男が二人並んでいる。視線の先の食堂で、マスクを外した女が食事をしている。口元に、うっすらとした傷痕が見える。
『あの口元の傷、思い出さへんか』
飴を鳴らす遠藤の声。目をそらす、もう一人。
『46年前の、あんたの恋人と同じ傷や』
『……もうやめてくれ』
『なあ、誘い出すだけでええんや。あとは何もせんでええ』
肩に置かれた手。それを振り払う腕。
『お前、おかしいんとちゃうんか!』
飴の音が止まり、遠藤の目がじっとりと暗い陰を帯びる。
『先輩。喋ったら、次はあんたの口を裂くで』
――柱の陰が、遠ざかる。
*
喫茶店の冷房の音が戻ってきた。
「い、今のはなんや」
矢内が椅子ごと身を引いていた。
「頭ん中を……見られとったんか、わしは」
「すみません。どうしても、確かめたいことがあったので」
太郎は目を伏せ、式盤を懐へ戻した。戻す指が、ひと呼吸ぶん遅れる。
矢内はしばらく荒い息をしていた。やがて、その息のまま口を開いた。
「……もう、隠すことはできんか」
帽子を握りしめ、矢内はゆっくりと、あとに続く言葉を紡いだ。
「7月に、商店街で声をかけられた。あの弁当屋の子を、誘い出してくれとな」
「断ったんですね」
「すぐには、断りきれなんだ」
矢内の声が後悔の色に染まる。
「遠藤が46年前に何で捕まったんかは、知っとった。逆ろうたら、今度はわしが殺される。……一度だけ、言われたとおり様子を見に行ったんや」
組んだ手が白くなるほど握られていた。
「そのあとで断った。ほしたら、喋ったら次はあんたの口を裂くで、と」
「東雲さんが訪ねた晩は、どこへ行くつもりだったんですか」
矢内の手が少しだけ緩んだ。
「……逃げえ、と。あの弁当屋の子に、言いに行こうとしたんや。46年前に、言えなんだことをな」
帽子のつばを指がなぞる。
「遠藤に、一度くらい逆ろうてみたかったんかもしれん」
矢内は伝票をつかんで立ち上がった。
「わしは、夏織を守ったれなんだ。……せやからあの子は、あんたらが守ったってくれ」
返事を待たずに、レジへ歩いていく。
支払いを済ませて太郎の方を振り返ると、矢内は帽子のつばを深く下げて出ていった。
入れ替わりに東雲が席へ来て、手にした自分の伝票を太郎の前へ置く。
「さっきの術は、あまり使うな」
「……なんのことですか」
「使ったあと、お前はいつも同じ顔をする」
「どんな顔ですか」
「知らんほうがいい顔だ」
それだけ言って、東雲は店を出ていった。
テーブルに、東雲の置いて行った伝票が残る。美琴が、太郎の横顔を見た。どんな顔なのかを、確かめようとして、やめた。




