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第57話 8月13日 怪異の始まり

 ――1978年、12月5日。


 深夜の八百津町は、底冷えがした。

 篠崎卓は、駐在所に勤務してから初めての冬の夜道を、自転車を押して歩いていた。


年末特別警戒の見回りの、最後のひと回りだ。途中で後輪の空気が抜けて、あとは押して戻るしかなかった。

 見回りに出る前、本署から寄った先輩が、妙な話を残していった。


「篠崎。この辺じゃな、夜道で女に会うても、引っ掛けたらあかんぞ」

「なんですか、それ」

「この辺の年寄りの怪談話や。見たら、そのまま連れてかれるんやて」


 笑って帰っていった先輩の話が、霧の出た夜の道では笑いにならなかった。

 白い息を吐きながら川沿いの道を行く。


 街灯はまばらで、灯りと灯りのあいだが長い。川のほうから、霧が上がり始めていた。二十四で、巡査二年目。管内の道はあらかた覚えたが、この時刻の静けさにだけは、まだ慣れなかった。


 ――今日は熱燗でも飲んで、温まってから寝よう。


 そう思った矢先、篠崎の表情が凍る。


 先に見える街灯の下に、人が立っていた。


 女の人だと輪郭でわかった。コートも羽織らず、冬の未明に立っている。口元には包帯が巻かれ、端に血がにじんでいた。

 篠崎は、自転車を押す足を緩めた。


 声をかけるべきだ。夜も遅い。怪我をしているなら駐在所へ。手袋の中で、指がかじかんでいた。


 女が、こちらを向いた。

 包帯の下から、声がした。


「……わたし、きれいですか?」


 低い、掠れた声だった。

 問いの意味が、よくわからなかった。包帯の端から、頬の途中まで走る黒い線がのぞいた気がした。糸のような、傷のような。


 ――見たら、そのまま連れてかれるんやて。


 先輩から聞いた怪談話が、耳の奥で鳴った。

 右手が、勝手に腰の警棒へかかっていた。


 そして足が、一歩、下がった。


 霜が、靴の下で小さく鳴る。


 女は、それ以上何も言わなかった。


 背を向けて、街灯の輪の外へ歩き出す。コートのない背中が霧の奥に消えるまで時間はかからなかった。追う足も、呼び止める声も出なかった。

 その翌日の午後、行方不明の届が出された。


 『朝比奈夏織(二十二)』。届け出の受理の判を押す篠崎の指が、一度止まった。


 *


 語り終えた篠崎さんは湯呑みを両手で握っていた。


「怖気づいて、一歩下がってしもた。それだけや」


 その夜道であった女性が行方不明届の出された人物だったのか、確かめる術は今もない。ただ、翌日から篠崎さんは管内を歩き直したそうだった。川を捜索し、山裾を回り、聞き込みの結果を日誌に足し続けていた。ただ、その前夜の出来事だけが書かれていなかった。

 俺は口を開いた。


「今、同じことを訊かれたら……どう答えますか」


 篠崎さんはすぐには答えなかった。

 庭の向こうで蝉がひとしきり鳴いて、やんだ。


「……46年、ずっとそれを考えとる」


 日誌が閉じられ、段ボールへ戻される。

 俺たちは縁側を立った。

 門まで送りに出た篠崎さんが、玄関先で足を止める。


「祐太郎」


 振り返った俺に、篠崎さんは言った。


「見つかったら、教えてくれんか。……生きとっても、死んどっても」


 誰が、とは言わなかった。

 俺は何も返せないまま、深く頭を下げた。


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