第56話 8月13日 朝比奈夏織(祐太郎)
篠崎さんの家は、古い平屋だった。
漣さんの紹介の電話から、今日になったと太郎さんから聞いていた。
この四日間、佐和子さんに頼まれた通り、夏織さんと夜道を帰っている。
ここへ来る途中でも、俺は二度、後ろを確かめた。夏織さんをじっと見ていたという帽子の男。佐和子さんにあの話を聞いてから、それが癖になっている。
包みの持ち手が、きのう切った指の絆創膏に触れた。血の玉が消えるより先に、白いハンカチが押し当てられていた。あの迷いのなさも、河原で子どもに紙飛行機を折ってやっていた横顔も、日々の中で夏織さんからもらったものだ。
太郎さんへ依頼した夜から、傷は広がっていない。血がにじんだのは、あの川べりが最後だ。店のほうも変わらず、昼の弁当はいつもどおり売り切れていく。夏織さんは、あれから一日も休んでいない。あの呪いは、いまのところ止まっている。
この毎日を、絶対に守る。
そのために、今日は46年前の話を聞く。夏織さんの迎えの時間には、間に合うだろう。
門の前で、太郎さんがインターフォンを押した。
隣には美琴ちゃん。俺は一歩うしろで、包みを提げて立っている。中身はけいちゃん弁当の大盛りだ。
戸が開いて、篠崎さんが出てきた。
白髪を短く刈って、背すじは俺より伸びている。無愛想で味の感想は言わないが、いつも決まった曜日にけいちゃん弁当を買いに来る、常連客の一人だ。
「……祐太郎か。おまえも一緒とはな」
「けいちゃんの大盛り、持ってきました。おごりです」
鼻を鳴らしながら、手はもう包みを受け取っている。
「漣から電話はもろとる。……まあ、上がれ」
俺たちは縁側に通された。
庭に面した、日当たりのいい縁側だ。麦茶を三つ出してから、篠崎さんは向かいに腰を下ろした。
「柳ケ瀬太郎といいます」
太郎さんが頭を下げる。
「1978年の12月に、篠崎さんが受けた行方不明の届のことで、うかがいました」
麦茶へ伸びかけた篠崎さんの手が、止まった。
しばらく庭を見て、それから立ち上がる。奥へ引っこんで、戻ってきたその腕には、古い段ボール箱が抱えられていた。
「意外と真面目やろ。40年分ある」
箱の中身は、大学ノートの束だった。
同じ判型のノートが、年の順に詰まっている。駐在の業務日誌の、自分用の控えだという。
束の中から、篠崎さんは一冊を抜いた。
1978年11月~1979年2月、と背に書いてある。
ページを繰る指が迷わず進んで、一度だけ止まった。そのページが、こちらへ向けて開かれる。
細かい鉛筆の字が並んでいた。
『十二月六日 晴 朝比奈夏織(二二)行方不明届受理 八百津町』
『聞き込み 交際相手 矢内明義 同大学』
太郎さんの手が、日誌の上で止まった。
俺は、二行の字を二度読んだ。それでも、並んだ名前は変わらなかった。
「朝比奈……夏織」
声に出すと、縁側の空気が一段下がった気がした。夏織さんと、同じ名前。46年前の、八百津町。
「矢内さんの名前もある」
美琴ちゃんの声も低くなっている。
行方不明の女の人の、交際相手の欄。矢内明義。太郎さんが今夜も電話で無事を確かめている、あのおじいさんの名前が、46年前の鉛筆の字でそこにいた。
「結局その朝比奈さんは見つからんかった。機動隊も動かして川もざらったが、何も出んかった」
日誌の上に、篠崎さんの節の太い手が置かれる。
「ただ、もしかしたら届出の前日に会っとったかもしれん」
俺は顔を上げた。
前日。届出が12月6日なら、12月5日ということになる。
篠崎さんは、開いた日誌ではなく庭のほうを見ていた。




