第54話 8月8日 二か月前の噂
翌日の柳ケ瀬庵は、古紙の匂いがした。
畳の上に、古新聞が積み上がっている。太郎と美琴でかき集めた1978年から79年の岐阜の新聞だ。開け放した戸から風が入るたび、めくりかけのページがぱらぱらと鳴った。
その山の真ん中にあぐらをかいて、昨夜のアロハシャツ姿のままの東雲が饅頭を食べている。
矢内を事務所に送り届け、一眠りして、宣言どおり乗りこんできた。
隣には五十鈴が座っており、美琴の渡す麦茶を両手で受け取る。湯呑みを渡すとき、久しぶり、と声が重なった。
「柳ケ瀬太郎。さあ話せ」
「……僕にも、理由はわからないんです」
饅頭の残りが、東雲の口へ消えた。
「わかった」
「いいんですか」
「よくはないが、まずは請求だ」
五十鈴が鞄から一枚の紙を出して、畳の上を滑らせた。
請求書、と大きく書いてある。余白には色鉛筆で、烏天狗を模した鳥と団子の絵。金額の欄の数字を、太郎は二度読んだ。
「……5万円」
「出張費と、深夜料金と、絵の代金」
言ったのは五十鈴だ。指を三本、順に折ってみせる。
「絵?」
美琴が横からのぞきこんだ。
「タイトルは烏天狗のお茶会」
五十鈴が、請求書に書かれた絵を指さす。
「……額に入れたくなりますね」
「額は別料金」
五十鈴は大真面目だった。
太郎は立ち上がり、土間の棚から古い小さな箱を持ってきた。ふたを開け、札を五枚数えて出す。箱の中はそれでほとんど空になり、小銭の音がむなしく響く。空の底を見ないようにして、太郎は札を五十鈴へ渡した。
受け取った五十鈴が小さく「領収」と言って、紙の隅に烏の判子を押す。判子まで自作だった。
東雲は新聞を一部つかみ、めくり始めている。饅頭の粉がページに落ちかけて、美琴が慌てて盆を差し入れた。
「粉、落ちちゃいますよ」
「心配には及ばん」
美琴の心配を意に介さず、東雲はページをめくっていく。
「で、今は何を調べている」
「46年前の口裂け女の噂です」
太郎は、一枚の紙面を抜き出して渡した。1979年夏の、遠藤茂逮捕の記事だ。
「僕は、当時岐阜で捕まった連続殺人犯の遠藤茂が、一連の謎のカギを握っていると考えています」
「ふうん。根拠は?」
「遠藤の当時の犯行手口。そして逮捕時期と、口裂け女の噂の終息の一致。これは漣さんからもウラが取れています」
今朝いちばんの電話で、寝起きの刑事に確かめたことだった。
「でも、一つ不思議に思うことがあるんです」
古新聞の上で、美琴の手が止まった。
「口裂け女の初報は、岐阜日日新聞の1979年1月26日なのに、遠藤茂による最初の事件は1979年の2月に起こっています。さらに」
美琴は自分のノートをさかのぼる。伝承研究の書きこみで、縁まで埋まったノートだ。
「私が調べた限りでは、口裂け女の噂が出回り始めたのは1978年の12月なんです」
「つまりどういうことだ?」
「事件の二か月以上前から、口裂け女は存在していたことになります」
畳の上に短い沈黙が下りた。
噂は事件から生まれ、育って広がる。その順番が、ここだけ逆さまになっている。
こと、と音がした。五十鈴が湯呑みを置いた音だ。
「2月の事件が最初じゃないんじゃないの?」
太郎と美琴が同時に顔を上げる。
「ちびっこ。もう一度言え」
「遠藤何某の最初の事件は12月で、解決してないだけなんじゃないかってこと」
記録に残る最初の前に、記録に残らなかった事件がある。そう考えれば、順番はもう逆さまではない。噂より先に、まだ誰にも知られていない事件があったのだ。
「……ちびっこ。その授業料も請求に足すか」
「それは無料でいい」
太郎は古新聞の山に手をついた。
「12月から1月の未解決事件を、全部洗ってみましょう」
顔を上げると、東雲はもう受話器を耳に当てていた。
「泣いて喜べ漣馨! 珍しく私からお前に頼み事だ」
受話器の向こうの渋い顔が、この場の全員に見えた気がした。




