第53話 8月7日 誰もいない路地(夏織)
商店街の角で、祐太郎さんと別れた。
ここからは一本道ですから、と言うと、祐太郎さんは何度も振り返りながら帰っていった。振り返るたびに、わたしは小さく頭を下げた。三度目のお辞儀で、祐太郎さんは角の向こうに見えなくなった。
なんかあったら、夜中でも店に電話してくださいね。別れ際にそう言って、番号を書いたメモを持たせてくれた。
夜道を、一人で歩く。ポケットの中にしまったメモは温かかった。
口元には、借りたままの手ぬぐい。マスクは鞄の中だ。血のにじんだものを、また着ける気になれなかった。
約束してください、と太郎さんは言った。
これから何を見ても、恐れないこと。
変な約束だと思う。何を見るのかを教えてくれないまま、恐れるなという。それなのに、あの部屋を出るとき、わたしの足は来たときより軽くなっていた。守れるかどうかより先に、守りたいと思える約束だったからだ。
街灯が一つずつ近づいては、後ろへ流れていく。
白木町の夜は静かだった。昼間はあんなことがあったのに、夜はいつもどおりの顔をしている。マスクが落ちて、みんなに見られて、川べりで傷が開いて血まで出た。一日ぶんの出来事を、順番に胸から下ろしながら歩いた。
雑居ビルとビルの隙間に、細い路地が口を開けていた。
のぞくともなく目をやると、積まれたビールケースと室外機の唸りがあるだけで、誰もいない。わたしは足を止めずに、その前を通り過ぎた。
アパートの階段を上がる。二階の一番手前。鍵を開けて、電気をつけて、いつもの部屋。
布団に入る前に、借りた手ぬぐいを丁寧に畳んだ。洗って、アイロンをかけて、柳ケ瀬庵へ返しに行こう。明日のことを一つ決めると、今日の残りがやっと軽くなった。
今夜は、眠れる気がした。




