第52話 8月7日 助ける値打ち
団地の外階段を、東雲は一段飛ばしで上がった。
四階の外廊下に夜風が通っている。蛍光灯が一本、じじ、と音を立てて瞬いていた。並んだ扉はどれも寝静まっている。
一番奥の扉が開いて、上着を羽織った矢内が出てくる。
鍵をかけ、振り向いたところで足が止まった。
「……東雲さん?」
「どちらへ」
東雲は廊下の真ん中に立っていた。
「散歩や」
戸惑った様子の矢内が、ばつが悪そうに答えた。
「こんな夜更けに? 深夜の特訓が強さの秘訣ですか?」
「ほっといてくれ」
「どなたかに、呼ばれましたか」
矢内が東雲の横をすり抜けようとする。
その腕を、東雲は静かに取った。
「今夜外へ出たら殺される、と言っても?」
矢内の目が、驚きで見開かれる。
「そう言ってきた男がいます」
「……誰や、そんなこと言うんは」
「柳ケ瀬にある胡散臭い拝み屋の店主です」
「拝み屋……?」
「ええ。私も普段なら鼻で笑うところですが、あの男の電話は笑えたためしがない」
蛍光灯が再び瞬いた。矢内は東雲の顔を見た。冗談かどうかを、確かめる目だった。
「あなたがこれから会いに行く相手を、私は知りません」
東雲は、腕を離した。
「ただ……殺されると聞いてあなたは、『なんで自分が?』とは聞き返さなかった」
矢内はうつむいた。上着の襟を直しかけた手が、途中で止まる。
「……わしはどうしたらええ」
「とりあえず、私の事務所で保護します。荷物を」
観念したように矢内は部屋のほうへと戻っていった。
「なあ、東雲さん」
ドアノブに手をかけて、動きを止める。
「わしみたいなもんでも、助ける値打ちがあるんかね」
夜風が外廊下を抜けていった。
「ゲートボールの相手が減ると困ります」
矢内が少しだけ笑った。ぎこちなかった。
「荷物は、何を持てばええ」
「替えの下着だけで結構。歯ブラシは事務所にもあります」
「……宿屋か、あんたんとこは」
「朝はパンしか出ませんが」
言い合いながら扉が開いて、老人が中へ入っていく。
東雲は外廊下の手すりにもたれ、夜の団地を見下ろした。
柳ケ瀬太郎の言うことは、半分もわからない。ただ、意味のないことをする男でもない。
部屋の中から、タンスの開く音がして、すぐにやんだ。
東雲は扉の脇へ移り、腕を組んで立った。




