第51話 8月7日 烏天狗探偵事務所
烏天狗探偵事務所の机は、今夜も書類の山が半分崩れていた。
崩れた山の谷間に、菓子の空箱がいくつも挟まっている。壁の作り付けの棚には古い金庫。天井で扇風機が、ゆっくりと首を振っていた。
その真ん中で、東雲綜一郎は串団子を食べている。
派手なアロハシャツに、腕まくり。机に足を載せた行儀の悪さと、団子を串から外す箸の行儀のよさが、同じ人物の中に同居していた。
向かいの応接用の椅子に南雲五十鈴が座っている。
中学1年生になる東雲の姪で、夏休みに入ってからはほとんど毎日のように事務所に入り浸り、スケッチブックに色鉛筆を走らせている。
突然事務所の電話のベルが鳴り響いた。
東雲は串を持ったまま、受話器を取る。
「はい、烏天狗探偵事務所の東雲ですが」
「太郎です。今すぐ保護して欲しい人がいます」
「なんだお前か、穏やかじゃないな。誰をだ」
「矢内明義という高齢者の方です」
東雲は串を置いた。
「高齢者とは頂けないな。最近だとグランドジェネレーションとも言う。略してグラジェネ、だ」
「そのやり取り、今必要ですか?」
「人生の最盛期を迎えた先達に、敬意を払えということだ」
五十鈴が立ってきて、麦茶のグラスを東雲の肘の横に置いた。礼は片眉で返ってくる。それで足りる二人だった。
言いながら、東雲の手はもう机の引き出しを開けている。中から会員名簿が出てきた。ゲートボール連盟の名の入った、手作りの冊子だった。
「それで心当たりは?」
太郎の質問に、パラパラとページをめくる手が止まる。
「知り合いに同姓同名が一人いる。吾妻門球クラブの矢内明義」
「どんな方です?」
「吾妻町のゲートボールチームのエースだ。先週も一点差で負けた」
受話器の向こうで、短い沈黙があった。負けた話まで聞いていない、という沈黙だ。東雲は気にせず名簿をめくり、住所の欄に指を当てる。
「住所もわかるぞ」
そのとき、視界の端でスケッチブックが持ち上がった。
五十鈴が、白いページに色鉛筆で大きく『とまる』と書いて掲げている。
東雲は受話器を肩に挟み、自分の携帯を無言で差し出した。家にかけろ、の意味だ。五十鈴がうなずいて、ボタンを押し始める。
「今夜、外に出さないでほしいんです」
「理由は」
受話器から、何も返ってこなかった。
扇風機の首が一往復する。五十鈴は部屋の隅へ寄って、声を落として話し始めた。おかあさん、の一言だけがこちらまで届いた。
「柳ケ瀬太郎。理由を聞いている」
「まだわかりません……が、殺されるかもしれない」
東雲は立ち上がり、椅子の背にかけられた上着をつかんだ。
「住まいまでは5分で着く」
「東雲さん」
「明日、洗いざらい聞かせてもらう」
受話器を置く。上着に袖を通しながら、手にしていた会員名簿を引き出しへしまった。
「少し出る。今日は奥の書斎を使え。おそらく客人がここへ来る」
東雲は五十鈴にそう言って、鍵を手に戸口へ向かう。
「綜ちゃん」
戸口で、声が追いかけてきた。
振り返ると、五十鈴がスケッチブックを持ち上げている。さっきの『とまる』のページではなく、絵の描かれたページだった。
「これ、完成した」
「あとで見る」
「鍵かけて寝ろ」を言い置いて、東雲は夜の階段を下りていった。
残された事務所で、五十鈴はスケッチブックを机に立てかけた。仕上がった絵がよく見える角度に、少しだけ直した。




