第50話 8月7日 巻き戻った夜
夜の柳ケ瀬商店街の上を、白いものが渡ってくる。
アーケードの明かりを越え、軒の連なりを越え、一枚のヒトガタが音もなく降りていく。通りのつきあたりの、灯りをともした一軒へ。
柳ケ瀬庵には、二人の客がいた。
口元に濡れ手ぬぐいを当てた夏織と、その隣に祐太郎が座っている。
太郎のかたわらには1979年の新聞が開いてあった。
『口裂け女の噂 児童らに広がる』という見出しが、電球の灯りに照らされている。
「口裂け女って……。そんなんただの都市伝説やろ!」
祐太郎の声が静かだった柳ケ瀬庵に大きく響いた。
「都市伝説は、ただの作り話ではありません」
太郎は湯呑みを、音もなく畳に置く。
「過去の凄惨な事件、当事者の無念、人々の恐怖の噂。それらが混ざり合った時、物理的な呪いとして現れることがあります」
手ぬぐいの下で、夏織の口がゆっくりと動いた。
「呪いは、解けるんですか」
夏織がまっすぐに太郎を見据えて尋ねた。
太郎はすぐには答えず、指を一本、立てた。
「一つ、約束してください」
「これから何を見ても、恐れないこと」
「恐れない?」
「恐怖は、呪いを深めてしまいますから」
夏織と祐太郎が顔を見合わせる。それから、同時にうなずいた。
張りつめていた空気がわずかに緩んで、太郎が口をひらきかけた。
その時、太郎の頭の上を人の形に折られた白い紙が横切った。
ヒトガタが舞い降りてきて、太郎の手のひらに静かに乗った。
夏織が顔を上げる。
「あの、それは?」
「すみません。少しだけ」
太郎はヒトガタを懐へ入れ、立ち上がった。畳を横切って、土間へ下りる。明かりの届かない場所で、懐からヒトガタを取り出した。
未来の自分から、過去の自分への伝言を送る六壬神課最後の術、『初伝回帰』。
取り返しのつかない未来が、この先にあったという証でもあった。
太郎はヒトガタを額へ当てて、目を閉じる。
閉じた瞼の裏で、何かが割れるような衝撃が来た。
太郎の膝から力が抜けて、崩れ落ちる。
「太郎さん!」
物音を聞きつけた祐太郎が下りてくる。土間に膝をつき、慌てて太郎へと肩を貸した。そのすぐあとに続いて、夏織も顔を出す。
太郎は息も絶え絶えに土間の隅の電話を指さした。
「……電話を」
「電話?」
「昼間の、女の子に。……来栖美琴に、連絡してください」
言い終えたところで、意識が途切れた。
土間の板の間に、祐太郎は太郎を寝かせた。
夏織が座布団を取ってきて、頭の下に敷く。呼吸はある。額に汗が浮いていた。声をかけても、返ってこない。
「……電話、て」
土間の隅に、黒い固定電話がある。その横の壁に、墨で書かれた表が掛かっていた。名前と番号が、几帳面に並んでいる。
祐太郎は指で、上から順に追った。
同業らしい屋号。寺の名。仕入れ先。そのいちばん下のほうに、来栖美琴の名前があった。
受話器を上げて、番号を回す。
三度目の呼び出しでつながった。
「はい、美琴です」
「あの、俺、石橋祐太郎いいます。柳ケ瀬庵の……太郎さんが、倒れて」
自分の声が、思ったより大きく出た。
向こうで息をのむ気配がして、椅子の鳴る音がした。
「太郎さんの意識はありますか」
「……呼んでも、返事せんくて」
「何か変わったことはありましたか」
「なんか妙な白い紙が飛んできて、それを手に取ってどっかに行ったと思ったら……」
「わかりました、10分で行きます」
電話はそれきり切れた。
何があったのかを、あの子は一度も聞かなかった。そのことが、いまはありがたかった。
*
太郎が目を開けると、そこには店内の天井があった。
畳に寝かされている。額には、濡れた手ぬぐいがのっていた。
「気がつきましたか」
枕元に、美琴が正座していた。セーラー服のまま、盆を膝の脇に置いている。
「夏織さんと祐太郎さんには帰ってもらいました。依頼は受けておきましたが、良かったですよね?」
「……ああ、大丈夫」
声が掠れて出た。
柱の時計を見る。針は、夜10時前を指していた。倒れてから、それほどたってはいない。
「なんて説明したの」
「こういうことは、たまにありますって」
美琴は盆の湯呑みを持ち直した。
「初伝回帰……、ですよね」
美琴の声が、少し鋭くなる。
太郎は半身を起こし、懐からヒトガタを出した。膝の上で、ゆっくりとひらいていく。折り目が戻るたび、白い紙に墨の線が現れた。
自分の筆跡だった。
『矢内明義老人保護』
八文字が、明かりに照らされている。未来の太郎が、すべてを引き換えにして届けた言葉だった。
「矢内明義って、誰ですか」
「わからない。……でも、探さないと」
太郎は土間の電話へ目をやった。
夜の柳ケ瀬で、人ひとりを今夜のうちに探し出して守れる相手。心当たりは、一人しかいなかった。




