第49話 8月21日 初伝回帰
署の廊下を、太郎と漣が足早に歩いていた。
「依頼って……お前、何をするつもりや」
太郎は足を止めなかった。
「欠けていたピースがわかったんです」
「ピース? 何の話や」
「夏織さんが手にかけたのは、矢内さん、遠藤茂、祐太郎さんの三人です」
「それがどないした」
「夏織さんと唯一接点の見えなかった矢内さんが、夏織さんの名前を知っていた」
漣が足を止めた。
太郎は数歩先で止まって、振り返った。
「……聞き間違いやないんか。殺される直前の人間の言葉なんぞ、あてにならん」
「かもしれません」
「夏織て名前も、そこまで珍しないやろ」
「あの人の名前は、役所の人がつけた仮のものです。ハンカチの刺繍の二文字を、そのまま。……その仮の名前を、初対面の人が呼んだ」
「はごろもキッチンの客やった、ちゅう線は」
「漣さんが一番ご存じのはずです。矢内さんの身辺は洗ったんでしょう」
漣が短く息を吐いた。
「……客やった形跡はない。それどころか、柳ケ瀬に出てきとった形跡もほとんどない」
「遠藤茂には46年の口裂け女への執着が、祐太郎さんには夏織さんへの想いがありました。そして矢内さんが、あの夜、ハンカチに刻まれた名前を呼んだ」
太郎が懐からハンカチを取り出す。
「矢内さんにも、何かがあった。……たぶんそこが、最初のボタンの掛け違いです」
漣は問い返さなかった。長く息を吐いて、行くぞ、とだけ言って歩き出した。
*
柳ケ瀬庵の店内の畳に広げた資料から、太郎は一枚の写真を引き出した。
矢内明義。団地で一人暮らしの、身寄りのない老人だった。その顔を、美琴と漣が黙って見ている。
「漣さん。矢内さんを知っている人に心当たりは」
「身辺は洗ったて言うたやろ。親類なし、勤めもとうに退いとる。団地の隣近所も挨拶程度や」
「だからと言って、交友関係が全くないわけじゃないはずです」
漣が腕を組んで、天井を仰いだ。
「……頼るんは癪やが、一人おるわ。ああいう年寄り連中に、化けもんみたいに顔の広いんが」
「東雲さん、ですか?」
名前は、太郎の口から先に出た。
「老人会主催のゲートボール大会にはいっつも顔出しとるし、探偵の癖に年寄り相手に空手道場まで開いとる。……連絡はお前がせえよ」
太郎は土間へ下りて、電話の脇の連絡先の表の一行に指を当てた。
烏天狗探偵事務所 東雲綜一郎。
ダイヤルを回す。
長いコール音が続いて、つながる。
「はい、こちら烏天狗探偵」
低い、張りのある声。名乗り切る前に、太郎が要件を伝える。
「東雲さん。夜分にすみません」
「……柳ケ瀬太郎か。今、何時だと思っている」
「矢内明義という人を、ご存じですか」
電話の向こうで間があった。
「2週間ほど前に例の連続殺人犯に殺された被害者だろう。残念に思っている」
「残念?」
「町内のゲートボール大会で、何度か手合わせしたことがある。強かったぞ、彼は。……惜しい男を亡くした」
張りのある声が、最後だけ低くなった。
太郎の受話器を握る手に力が入る。
「ありがとうございます」
「おい。用件は」
太郎は受話器を置いた。
「……おい、切りよったぞ」
漣のあきれ声が土間に落ちる。太郎は答えずに奥の間へ入り、一枚の白い紙を手に戻ってきた。
それを見た美琴の目が、見開かれる。
太郎は畳に正座して、紙を折り始めた。
白い紙は、上等の和紙だった。角と角を合わせ、折り目に指を滑らせて裏返し、また折る。祈りのような静かな手つきが続く。
折り目をなぞる右手の指が一度だけ小さく震えて、止まった。
折り上がったのは、一体のヒトガタだった。
頭があり、両腕があり、足がある。人の形をした白い紙が、手のひらに横たわっていた。
「……やめてください!」
美琴の声が先に出ていた。
見覚えのある折り方だった。どうか違っていてほしい。そう願う美琴には答えず、太郎は筆を手に取る。
「初伝回帰は、代償が」
「なんやそれは」
漣の眉にしわが寄る。
「過去の僕に、伝言を送ります」
「過去の、なんやって?」
太郎は筆を止めて、漣と美琴を順に見た。
「送れるのは八文字まで。……記憶は引き継げませんが」
「もう何をされても不思議やないけどな。八文字……たったそんだけか」
「陰陽道における八という数字は特別な意味を持っています。陰の気を持つ数字でありながら、末広がりの形からよりよい未来をさすとも言われています」
太郎は筆を持ち直した。
ヒトガタの白い胴に、墨の字が一画ずつ書かれていく。誰も口を挟めなかった。
『矢内明義老人保護』。
「この伝言を見れば、僕は東雲さんを頼るはずです」
「でも、そうしたって今が変わる保証は」
「ないよ」
太郎は、きっぱりと言い切った。
「でも夏織さんに人を殺させたら、きっと止まらない」
思案していた漣が口を開く。
「八百津夏織を拘束したらええんやないか」
「それだと、過去の僕が矢内さんを知るきっかけがない」
美琴が、口の中で組み立て直すように言った。
「守れたら……夏織さんは、矢内さんを殺さずに済む」
「そして、生きている矢内さんに話が聞ける」
太郎の声は、店で客に応じるときと変わらない。
「この二週間だけで、式盤展開を三回。占事まで使って。……その上、初伝回帰なんて」
美琴の両手が膝の上で握られた。
「前に使ったとき、太郎さんがどうなったか。……忘れちゃったんですか」
「僕が使わなかったら、誰が使うの」
美琴の顔が、泣き出す寸前にゆがんだ。その頭に太郎の左手が置かれる。小さな子どもにするように、ゆっくりと。
「みこちゃん。下がってて」
置かれた手が離れる。
美琴は一歩だけ下がったが、それ以上はどうしても下がれなかった。
太郎はヒトガタを目の高さに上げた。
息を吹きかける一拍前に、面会室の声がもう一度聞こえた気がした。
――ただ、祐太郎さんに、会いたい。
ふ、と息が吹きかけられた。
ヒトガタが、手のひらの上で立ち上がる。
誰も動けなかった。ヒトガタは一度だけ揺れると宙を滑り、戸の隙間へ吸い込まれるように抜けていった。紙の音さえしなかった。
漣が口を開けたまま固まっている。
畳の上で、太郎の身体が崩れた。
「太郎さん!」
美琴と漣が駆け寄る。呼びかけに返事はなかった。美琴はすがるように太郎の手を握り締めた。
*
夜の柳ケ瀬の上を、白いものが渡っていく。
軒の連なる商店街の屋根を越え、アーケードの明かりの上を、ヒトガタは静かに飛んでいく。
灯りの落ちた、はごろもキッチンの看板の上を越えた。
シャッターの内側では、冷蔵庫の一番手前に二つの弁当が入ったままになっている。
ヒトガタは夜のいちばん暗いところへ向かって、小さくなっていった。
やがて闇にまぎれて、見えなくなった。




