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第48話 8月21日 夏織の願い

 八百津から柳ケ瀬までの道を、車は行きよりも静かに走った。道中で口を開く者はいなかった。


 漣は報告を上げるために一度署に戻り、事件の顛末を伝えるために柳ケ瀬庵を訪れていた。

 太郎は漣に茶を入れ、正面に座った。美琴は膝の上でこぶしを握り締め、必死で涙をこらえている。


「八百津夏織は所轄の駐在が、例の空き家で確保した。抵抗も、逃げようともせんかったそうや」


 美琴はうつむいたままだった。


「口元の傷は無くなっとったと聞いとる」


 傷が、消えた。

 2か月ものあいだ、誰にも消せなかった傷が。呪いが解けた証のはずだ。それなのに、この部屋の誰も喜べずにいる。


「祐太郎さんは?」


 漣は美琴の方を伺いながら、それでも口を開いた。


「……石橋祐太郎の遺体は司法解剖に回された」


 太郎は返事をできなかった。今朝、戸口で振り返らなかった背中が、まぶたの裏にある。なぜ止めなかったのかと、後悔だけが募る。

 美琴が耐え切れず嗚咽を漏らす。

 漣が頭を下げる。


「……すまん」


 障子は開いたままになっていた。

 奥の間に、布団が敷かれたままになっている。枕元に、飲みかけの湯呑みが二つ。一つは夏織のもので、もう一つはゆうべ祐太郎が口をつけたものだ。もう触れる者のないまま、二つが並んでいる。


「私が、もっと早く探せてれば」


 美琴の声が震えた。


「みこちゃんのせいじゃない」

「じゃあ、誰のせいですか!」


 太郎は答えられなかった。美琴も答えを待っていなかった。誰にもこたえられない問いだけが、部屋に残る。


 悔やむ理由なら、いくらでもある。気づくのが遅かったこと。車が間に合わなかったこと。鳴り続けた呼び出し音。どれだけ数えても、あの二人は戻ってこない。


 畳の資料を見たまま、太郎は黙っていた。


「太郎。一つ、頼みがある」


 漣の声の調子が変わった。


「八百津夏織が、あんたに会わせてほしいと言うとる」

「夏織さんが……?」


 美琴が息をのんだ。


「供述に協力的な分、上は頼みを聞かんでええと言うとる。明日には送検されてまう」


 太郎は立ち上がった。


「5分だけや。それなら何とかなるかもしれん」


 *


 夜の署は、昼より明るく感じられた。


 白い蛍光灯の廊下を、漣の背中について歩く。すれ違う署員は漣に目礼するだけで、太郎には誰も目を留めない。この男が、どこかで話を通しておいてくれたのだろう。

 面会室の手前で、漣が声を落とした。


「5分や。板には触れるな。……話は、俺も聞く」

「はい」


 面会室は狭かった。

 部屋を二つに割ってアクリル板が立ち、こちらと向こうに椅子が一つずつ。それだけの部屋だ。壁際に漣が立つ。天井の隅で、時計の秒針が鳴っていた。

 夏織はすでに座っていた。


 マスクはもうしておらず、その口元に傷はなかった。

 2週間前に依頼された呪いの解呪が、アクリル板の向こうで果たされていた。縫い痕も、裂け目の影もない。初めて会った夜からずっと布に隠されていた口元が、いま灯りの下にある。


 きれいな口元だった。こんな形で見たかったわけじゃない。そして、一番見たかった人はもうこの世にいない。太郎は、目をそらしたくなるのをこらえた。

 太郎は椅子に腰を下ろした。


 板ごしに目が合う。夏織は居ずまいを正して座っていた。

 留置の間に借りたのだろう、大きめの上着の袖をきちんと折り返している。膝の上には、畳んだマスクが置かれていた。もう要らないはずのものを、この人はまだ持っている。


「……傷が、無くなったんです」


 自分の口元に指で触れた。


「祐太郎さんに、好きやって言われた時に」


 好きや、の言葉を、夏織は祐太郎の言い方のまま口にした。それからアクリル板に目を落とす。


「愛されたら、その人を殺してしまう。……そういう呪いだったんですね」


 問いかけではなく、答え合わせだった。昼間、調書を前にして組み上げた推測と、寸分たがわない。当たってしまったことが、太郎の後悔に拍車をかける。


「……あなたのせいじゃありません」


 言えるのは、それだけだった。

 夏織は小さく首を振り、それから顔を上げた。


「わたし、思い出したんです」


 夏織の瞳が、太郎を映す。


「呪いが解けた時に、全部思い出しました。……わたしが、してきたこと」

「……してきたこと、ですか」

「はい。……わたしが殺してしまった人たちのことを」


 膝の上で、両手が握られる。

 抜け落ちていた夜が、一度に戻ってくる。それがどれほどのことか、太郎には想像することしかできなかった。それでも夏織は、その事実から目をそらさずに座っている。


「太郎さん。一つだけ、聞いてほしいことがあります」

「……なんでしょう」

「最初の……おじいさんのことです」


 最初、と言われて思い当たるのは一人しかいない。8月7日の夜、路地で殺された矢内明義のことだ。


 壁際で、漣の気配が止まった。


「わたしが首を絞めているとき、わたしの名前を呼びました」

「矢内さんがですか?」

「『すまんかった、夏織』って」


 太郎はアクリル板越しに身を乗り出した。


 夏織。市役所の人がつけた仮の名前だ。名字は見つかった町から、名前はハンカチの刺繍から取られた。その名をあの夜の路地で、殺される直前に矢内明義が呼んだ。


「その人と、以前に会ったことは」

「ありません。……あの夜が、初めてでした」


 初めて会った相手が、彼女の名前を知っていた。


「もしかしたら、あのハンカチの持ち主をあの人は知っていたのかもしれません」


 声は、震えていなかった。

 思い出したことの中から、これだけは伝えなければと決めて、この5分に持ってきたのだろう。自分のことより先に、手がかりを渡そうとする。初めて会った夜から、この人はずっとそうだった。


「……教えてくれて、ありがとうございます」


 夏織がアクリル板に片手をついた。

 やるべきことをすべて終えたかのように、夏織の瞳から色が失われていく。


「わたしは、どうなってもいい……」


 うつむいて、手が握り締められた。


「ただ、祐太郎さんに……会いたい」


 夏織の瞳から涙が落ちる。

 頬を伝う一筋を、夏織はぬぐわなかった。ぬぐうためのハンカチは、いま太郎の懐にある。板の厚さの分だけ、届かない場所に。


 会いたい。


 叶うはずのない願いだと、この人はわかっている。わかったうえで口にした。そして、それを言う相手に太郎を選んだ。

 太郎は背筋を伸ばした。


「……ご依頼、お受けいたします」


 夏織が、驚いたように顔を上げた。

 濡れた目がアクリル板ごしに太郎を見ている。冗談でも、慰めでもないことを、その目は確かめようとしていた。太郎は、目をそらさなかった。

 外から扉をノックする音がした。


「すまん、面会はここまでや」


 太郎は立ち上がり、夏織へ深く一礼した。

 頭を上げると、夏織はまだこちらを見ている。何かを言いかけた口が、言葉にならないまま閉じられた。

 部屋を出るとき、一度だけ振り返った。


 アクリル板に、手のひらの形の曇りがまだ薄く残っていた。


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