第47話 8月21日 二匹の鮎菓子
坂の上の空き家の庭に、夕闇が下りていた。
蝉の声は、いつのまにか止んでいる。ほんの少し前まで、この庭では声がしていた。
草の上に紙袋が落ちている。
口のひらいた袋から鮎菓子が二匹、転がり出ていた。落としたままの形で、暗くなり始めた草の上に並んでいる。
その先に、祐太郎が倒れている。
うつぶせのまま、顔は草の中に伏せられて見えない。片方の腕が前へ伸びて、手のひらは上を向いたままひらいている。何かを受け取ろうとした形で、止まっていた。
かたわらで夏織が立ち尽くしている。
その口元に、傷は残っていない。
裂けていたはずの場所に、白い肌が続いている。縫い痕も傷の影もない。二か月のあいだこの顔にあり続けたものが、跡形もなく消えていた。
夏織の指が自分の口元に触れた。
夏織は傷のあった場所をゆっくりとなぞり、なぞった指先を見つめる。
指の先に、血がついていた。
口元に傷はもうないのに。
夏織は、その指を長いあいだ見ていた。
そして倒れている祐太郎に気付き、膝が草の上に落ちる。
夏織の手が伏せられた肩に触れた。震える手で祐太郎の肩を揺する。
名前を呼びかけようと口がひらくが、声は出てこない。
両手が肩の下に差し込まれる。
細い腕が重さを持ち上げようとして、何度も止まった。少しずつ、身体があおむけに返されていく。
祐太郎の頬についた草の種が、ぽろりと落ちた。
顔が、夕闇の中にあらわれる。
祐太郎の口は、耳まで裂かれていた。
夏織の両手が宙で止まる。
自分の口元から消えたものが、そこにあった。
傷のない口が大きくひらかれる。
夏織は叫んでいた。
その声が自分の耳に届くことはなかった。
*
どれだけそうしていたのか、夏織の手がふいに動いた。
草の上を這って、鮎菓子を拾い、封を開ける。
震える手が、鮎菓子の頭としっぽをちぎり分ける。
夏織は、頭のほうを差し出した。
祐太郎は動かない。
差し出す手の形のまま、時間だけが過ぎていく。
やがて夏織は、祐太郎の手を取った。
ひらいたままの手のひらに、鮎菓子の頭のほうをのせる。それから指を一本ずつ折り曲げていく。親指。人差し指。紙飛行機の折り方を教えるときと同じ、丁寧な手つきだった。
一本折るたびに、夏織の肩が大きく波打った。
握らせ終えた手を、夏織は両手で包む。
夕闇の中で、白い手が三つ重なっていた。
坂の下から、サイレンの音が近づいてくる。
一つではなかった。二つ三つと重なって、山あいの町に反響している。坂の下で誰かの呼ぶ声がしても、夏織の顔が上がることはなかった。




