第46話 8月21日 告白(祐太郎)
バスを降りると、町はもう夕日の色をしていた。
降りたのは俺一人で、バスが行ってしまうと、蝉の声だけが残った。2日前に夏織さんと見上げた標識が、同じ場所に立っている。
同じ停留所から、同じ道を歩いた。
郵便局の前。石段の下。夏織さんが足を止めた駄菓子屋の前も、今日はのぞかずに通り過ぎた。そんな時間が惜しかった。
前に来た時と違って、軒先の風鈴は鳴っていない。町の人とは誰ともすれ違わず、夕方の八百津は道の先までしんとしていた。この静けさのどこかに、夏織さんがいる。
細い坂道に入った。
夕日が坂の上から差してくる。まぶしさに目を細めながら、一歩ずつ上っていった。急ぎたいのに、足が急いでくれない。走ってきたのとは違う速さで、心臓が鳴っていた。
言うべき言葉を頭の中でもう一度並べてみたが、並べるほどのものでもなかった。初めから、一つしかない。
夏織さんと訪れた空き家の前で、足を止めた。
閉じたままの雨戸。
腰の高さまで伸びた庭の草。
表札の外された白い跡。
二日前と、何も変わっていない。それなのに、この家がやけに大きく見えた。
息を一つ吸うと、草の匂いが胸まで入ってきた。
不安を振り払うように、門をくぐった。
草が足首に触れ、かき分けて進むたびに乾いた匂いが鼻をかすめる。庭の奥は、家の影になっていて暗い。
その暗がりの奥で、草が揺れるのが見えた。
現れたのは、夏織さんだった。
マスクはしておらず、耳元まで裂けた口があらわになっている。
太郎さんの話を聞いた夜から覚悟はしてきたつもりでいたが、実際に目の前にすると足が固まった。
気がつくと、蝉の声が消えていた。
一度だけ息をのんで、それきり目をそらさなかった。そらしたら、そこで終わってしまう気がした。俺が見ているのは傷じゃない。夏織さんだ。
「夏織さん」
声は、思ったよりちゃんと出たことに安心する。
返事はない。それでも名前を呼べただけで、足が少し前に出た。
夏織さんがゆっくりと近づいてくる。
足音がまったくしない。草の中を、滑るように寄ってくる。目は俺を見ているのに、どこか遠いところを見ているようでもあった。夏織さんは、俺の知らない場所へ行ってしまっている。それでも連れて帰る。そのために、ここまで来た。
逃げるならここが最後だと、頭のどこかが言った。
それでも、無理やりその言葉を振り払う。
「ずっと、探しとったんやわ」
夏織さんの目が、初めて俺を見た気がした。
「今日な、河原であの子におうた。紙飛行機の子、覚えとるか?」
返事はない。それでも俺は続けた。
「もっと飛ぶやつ作っちゃるて、約束してもうたんや。……けど俺、折り方が最後まで出てこんくてな。あの子に笑われたわ」
夕風もないのに、草の先が揺れた。
「今度、もういっぺん教えてくれんか」
夏織さんが俺との距離をゆっくりと詰め始める。
紙袋を持ち上げてみせた。
「腹、減っとらんか」
夏織さんの足が、止まった。
声が届いている。それがわかっただけで、次の言葉がいくらでも出てきた。この人はいつだって、俺の話を丁寧に聞いてくれる。
「鮎菓子、買うてきた。一緒に食べようや。……頭のほう、やるで」
日の当たらない場所に、夏織さんは立ったままでいる。夕日が作る境界線のあちら側に。
日の当たる場所から、俺は話し続けた。
「そんで帰ったら、佐和子さんとこで飯食おう。出がけにな、弁当もろたんや。二人で食べるって約束した」
俺は、一歩前に出た。
「足らんかったら、けいちゃんも焼いたる」
夏織さんがまた歩き始める。近づいてくるのを、俺は下がらずに待った。
「病院で聞いたんやわ。料理、始めたんやてな。教えてくれる人がおるんです、って言うとったて」
裂けた口の端が動いた気がしたが、笑ったのかそうでないのかは、夕闇の中ではわからない。
「今度は一緒に作ってみよや。ばあちゃんのタレ、教えたるで」
ばあちゃんのタレを夏織さんはきっと几帳面にメモに取るだろう。それを横からのぞき込む自分の姿まで浮かんだ。
「ほんでな、夏織さんの作ったけいちゃんが食いたい。たまには俺にも食べさせてくれや」
そんな日常が来てほしいと願いながら、言葉にしていた。
裂けた口が、ゆっくりとひらいた。
「ワタシ……キレイ?」
街じゅうが噂したあの問いを、俺はいま夏織さんの声で聞いている。かすれて、低くて、それでも確かに夏織さんの声だ。2か月前、よろしくお願いします、と初めて店で挨拶を交わした時と同じ声。
その問いの答えを、俺は知らない。
太郎さんにも、正しい返し方も聞いてこなかった。それでよかったと思う。答えを探すより先に、言おうと決めてきた言葉が口をついて出た。
紙袋を下ろした。
「俺な、言いたかったことがあるんやわ」
夏織さんの足が止まる。
夕日が坂の下へ沈んでいく。最後の光が、庭の草の先を細く光らせていた。誕生日の夜のろうそくをふいに思い出す。言えるうちに言わなあかんよ、と佐和子さんは言った。
「好きや。……ずっと前から、好きやった」
河原で子どもに折り紙を教えた横顔も。ハンカチで押さえてくれた手も。うん、とうなずくあの声も。
全部にまとめて、やっと言えた。
胸の真ん中が、すとんと軽くなる。こんなに軽くなるなら、もっと早く言えばよかった。もっと早く言っていたら――そこから先は考えなかった。
夏織さんの手が、こちらへ伸ばされる。
白い指先が、夕闇の中をまっすぐに近づいてくる。
怖くなかったと言えば、嘘になる。それでも引かなかったのは、俺が触れたかったからだ。呪いも傷も全部込みで、この人に。
俺はその手に触れた。
氷みたいに冷たい指先で、それでも確かに夏織さんの手だった。俺はその手を、両手でそっと包んだ。
温かくなるまで、離さないでいようと思った。
包んだ手の向こうで、裂けた口がゆっくりと笑顔を見せた。




