第44話 8月21日 八百津町への再訪(祐太郎)
八百津行きのバスは、駅前を定刻に出た。
乗り込んだのは、俺のほかに二人だけ。買い物袋のおばあさんと、作業着の男の人。2日前と、似たような顔ぶれだった。
一番後ろの席で、窓の外を見る。整理券の番号だけが一つずつ進んでいく。
山あいの景色が流れていく。
2日前と、同じ道を行く。あの日は、隣に夏織さんが座っていた。窓側を譲ったら、ありがとうございます、と深く頭を下げられた。
今日は、通路をはさんだ空席がやけに広かった。
膝の上に紙袋がある。
駅前の和菓子屋で、鮎菓子を買った。
袋の底で、菓子のやわらかさが指に伝わる。そのたびに、河原の夕方が浮かんだ。頭のほうがおいしいんですよね、とうれしそうに笑った、あの目が。
佐和子さんの声がまだ耳に残っている。
――あんたはまだ言えるんちゃうんか。
言いたいことだけ山ほど残ったわ、とも言っていた。
まだ、言える。
そう思った瞬間に、店を飛び出していた。回れるところはすべて回った。夏織さんと一緒に行った中で残っているのは、八百津の空き家だけだった。
ポケットの中で、スマホが震え出した。
取り出すと、画面に、柳ケ瀬庵 太郎さん、と出ている。
しばらく画面を見ていた。
出れば、たぶん止められる。一人で行くな、と言われる。太郎さんが正しい。それは、わかっている。
それでも、俺は画面を伏せた。ポケットへ戻す。震えはしばらく続いて、やんだ。
――太郎さん、すんません。
胸の中だけで、謝った。止められて、待って、それで間に合わなかったら。そんな後悔を抱えて生きていくのは、絶対にいやだった。
危ないのは、わかっている。夏織さんがいまどうなっているのかも。それでも行くと決めたのは俺だ。
一人にはさせない。
そう言って出てきた以上、誰かを巻き込むわけにはいかなかった。
目を閉じると、浮かんでくるものがある。
河原で、子どもに紙飛行機を教えていた横顔。指を切った俺に、迷いもせずハンカチを押し当ててくれた手。うん、と小さくうなずく声。目だけで笑う、あの笑い方。
どれも、消えないまま残っている。
窓の外へ目を戻した。
山の緑が夕方の色に変わり始めている。
2日前の夏織さんは、この景色を初めて来た気がすると言った。何を見ても初めてで、それでも、見飽きるよりいいと返したら小さく笑ってくれた。
そして空き家の前で、夏織さんは倒れた。
抱き起こしたとき、肩ごしに感じたあの視線を、いまも覚えている。薄れていく目で、あの空き家をずっと見ていた。
あの家が何なのかは、俺にはわからない。
それでも、夏織さんの身体はあの家を覚えていた。紙飛行機の折り方を、手だけが覚えていたのと同じだ。だからあの場所に、夏織さんはきっと戻る。
窓に額をつけた。
ガラスの冷たさが、走り通しだった頭に少しだけ効いた。
「……あそこしかない」
口に出すと、迷いの残りが消えた。
――夏織さん。あんたが何しよったんかは、もう聞いた。それでも俺の言いたいことは、朝から一つも変わっとらん。
それを伝えるためだけに、このバスに乗った。
怖くないと言えば、嘘になる。あの家で何が待っているのかを考えると、足がすくんだ。それでもバスは、俺を坂の上へ運んでくれる。
おばあさんが途中の停留所で降りていった。降りぎわに運転手さんと二言三言、笑い合っている。普通の夕方が、窓の外に続いていた。
鮎菓子の袋を膝の上で抱え直した。
バスは山道をゆっくりと上っていく。夕日が窓の中まで差し込んできた。八百津まで、あと少しだった。




