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第42話 8月21日 二人でもらいます

 準備中の札を下げたはごろもキッチンの厨房で、佐和子は鉄板を磨いていた。


 磨くところはもう残っていないのに、手は止まらなかった。昼を回っても、仕込みは半分も進んでいない。休憩室の戸は開いたままになっている。

 物騒な報せは、昼のラジオが運んできた。連続殺人の容疑で逃げた男が遺体で見つかったという。詳しいことは何も教えてくれない短い報せだった。

表の通りを、サイレンが一度だけ遠ざかっていく。


 その時、戸が開く音がした。

 厨房から音のした方を見ると、立っていたのは祐太郎だった。


「祐ちゃん」


手を止めて、佐和子が祐太郎の方へと駆け寄る。いつも小ぎれいにしていたシャツは汗で張り付き、ズボンも靴もよれていた。


「夏織さん、来ませんでしたか」

「来とらんよ」

「……そうですか」

「朝から、ずっと捜しとるんか」


 祐太郎が焦った様子で、店の中をひととおり回る。厨房。休憩室。仕入用の貯蔵庫の前。夏織がいつも立っていた場所を、順番になぞっていった。


「何があったんや」


 店内に戻ってきた祐太郎に尋ねても、答えは返ってこない。

 佐和子はエプロンで手を拭くと、椅子を一つ引いて、そこを指した。


「座り」


 祐太郎が首を振る。


「ええから」


 二度目でようやく座った。膝が椅子へ落ちるように曲がる。佐和子が水を一杯先に置くと、コップは一息に空になった。


 佐和子は商品棚に並べていたけいちゃん弁当を手に取って蓋を開け、卵を一つ落として、レンジに入れた。

温まるまでの音だけが、準備中の店に響く。温められた弁当が、祐太郎の前へ置かれた。


「食べや」


 箸は取ったものの、食べようとする気配はない。

 祐太郎は長いあいだ黙っていた。それから、ひとりごとのように言った。


「……俺、あの人のこと、なんも知らんかったんやなって」


 佐和子は布巾を絞り直して厨房へ戻り、また鉄板を磨き始めた。大切な話をするときは、手を動かしながら。それがこの店の昔からのやり方だった。


「うちの人のことかて、知らんことばっかりやったよ」


 磨く手は、止めない。


「そのくせ、言いたいことだけ山ほど残ったわ」


 磨く手の先で、鉄板が鈍く光っている。


「今でもな、こうやって磨いとると、あの人の小言が聞こえてくるんよ。火ぃ強すぎて焦げがとれやん、って」


 祐太郎が顔を上げた。

 佐和子は手を止めて、「何があったかは知らんけどな」とその顔を見据える。


「誕生日の夜に言うたやろ。言えるうちに言わなあかんよ、って。……うちはあれ、あんたに言うたつもりやったんやけどね」


 祐太郎の目が大きく見開かれた。


「あんたはまだ、言えるんちゃうんか」


 箸が置かれ、椅子が鳴って、立ち上がった。


「あんた、食べとらんやろ」


 佐和子が呼びかけるも、祐太郎は返事をしない。


「祐ちゃん!」


 もう一度呼ぶと、今度は振り返った。


「帰ってきたら、二人でもらいます」


 静かに戸が閉まる音が、店内に響く。

 佐和子は手つかずの弁当のふたを閉める。商品棚からもう一つ弁当を手に取ると、二つの弁当を冷蔵庫の一番手前へ入れた。

 佐和子が鉄板の前へ戻る。

 磨くところは、もうどこにも残っていなかった。

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