第41話 8月21日 どこにもいない(祐太郎)
庵の戸を閉めた瞬間から、走り出していた。
昼のアーケードはまだ事件の話が所々で漏れ聞こえてくる。人ごみを縫うたびに肩がぶつかって、後ろで怒鳴る声がした。それでも謝る余裕すら持てなかった。
最初に向かったのはアパートだった。
二階の一番手前。階段を一段飛ばしに上がって、扉を叩く。
返事はない。新聞受けには、今朝の朝刊が挟まったままだった。
一階へ下りると、大家さんが打ち水をしているのが見える。
「八百津さん、見とらんですか」
「ああ、あんたか。……見とらんねえ」
ホースの先が下を向く。
「朝から警察の人も来とったよ。おんなじこと聞かれたわ」
「警察が?」
「二人。若いのと、こわい顔したのと」
水がアスファルトに吸われて、色が濃くなっていく。
「あんた、よううちの階段で待っとったやろ」
「……はい」
「送ってもろとったで、ここんとこは遅うなっても安心しとったんやけどねえ」
安心していたのは、自分も同じだった。
「見かけたら、なんて言えばええ」
「……待っとる、と」
大家さんはうなずいて、それ以上は聞かなかった。
もしかしたら、かかりつけの病院に行っているのかもしれない。
そう思うのが先だったのか、自然と足が再び駆け出していた。
*
通院の日は、二人でバスに乗っていたことを思い出す。
大通りへ出て、その路線を今日は走って追いかけた。信号で追いついて、発車で離される。二駅ぶんを走りきる頃には、シャツが背中に貼りついていた。
病院の自動ドアをくぐると、効きすぎた冷房のせいか、汗が一気に冷えていく。昼の外来は、待合の椅子が半分ほど埋まっていた。番号を呼ぶ声の合間を抜けて、受付へ行く。
顔見知りの看護師さんが俺に気づいて近寄ってきた。
「あら、今日は一人なん?」
「あのっ、夏織さん来とりませんか?」
「八百津さんなら、来とらんよ」
「予約とかは」
支給されているタブレット端末だろうか。看護師さんがそれを見ている。
「来週の水曜になっとるねえ」
看護師さんは俺の顔を見た。
「何かあったん」
俺には答えられなかった。
看護師さんは少しのあいだ黙って、それから声を落とした。
「あの子な、病院に通い始めたころは、ほんとに何もない子やったんよ。何かを思い出すように、ずうっと天井ばっかり見とって」
白い天井。
夏織さんの世界は、そこから始まっている。
「それがこの頃は、診察でもよう笑うようになってねえ。あんたの話ばっかりやよ。こないだは鮎菓子くれてな。頭のほうが甘いんや、って得意げに」
夏織さんは俺の知らないところで、俺の話をしていた。
「料理も始めたんやて。教えてくれる人がおるんです、って」
聞くたびに、胸のどこかが締まっていった。
「……もし見かけたら、教えてください」
「うん。あんたも、気いつけや。顔色良うないで」
深く頭を下げてから、俺は病院を出た。
外へ出ると、日ざしに少し目がくらむ。次は、どこだ。
*
河原へ着いたのは、昼を過ぎたころだった。
草の匂いがあの夕方と同じだった。あの日と違うのは、隣に夏織さんがいないことだ。
草の上に、小さな影が一つある。
紙飛行機が風に乗って、伸びて、力尽きたように落ちた。拾いに走る背中に、見覚えがある。夏織さんが紙飛行機を教えた少年だった。
男の子のほうが先に俺に気づいた。
「あ。お兄ちゃん」
駆け寄ってきて、俺の後ろをのぞく。
「あのお姉ちゃんは?」
「……今日は、おらんのや」
「ふうん」
男の子は紙飛行機を持ち上げて、口をとがらせた。
「これな、あのお姉ちゃんのみたいに、うまいこと飛ばんの」
少しだけ不格好な紙飛行機。あの日夏織さんが折ったものを真似たようだった。
「折って」
折り紙を一枚、押しつけられた。
受け取って、縦に半分に折る。開いて、角を中心線へ。そこまでは覚えている。夏織さんの指を、すぐ隣で見ていた。
そこから先で、指が迷った。
斜めに返すのが先だったか。翼を折り上げるのが先だったか。順番を手探りしながら、どうにか形にする。
男の子が投げた。
飛行機は伸びて、ふらついて、途中で草に降りた。あの日みたいに、川へまっすぐには行かない。
「……やっぱり、あのお姉ちゃんのんが、よう飛ぶなぁ」
男の子に、悪気は感じない。
夏織さんがいなくなるというのは、こういうことが一つずつ増えていくことなのだと思い知った。
――嫌や。
俺は、男の子の頭に手を置いた。
「今度な、あの姉ちゃんにもういっぺん教えてもろて、もっと飛ぶやつ作っちゃるわ」
「ほんと?」
「約束や」
「じゃあ、お姉ちゃんも連れてきてな」
「……おう」
絶対に連れて帰る。そのために、いま走っている。
立ち上がると、膝に力が戻っていた。
商店街へ戻る足が、自然と角を曲がっていた。
はごろもキッチンの看板に、準備中の札が下がっている。夏織さんが頼れる場所として考えられるのは、もうここしかなかった。だからこそ、後回しにしてしまっていたのかもしれない。
看板の下で息を整えて、俺は戸に手をかけた。




