第39話 8月21日 狂人の本懐
所轄に入った通報は、夜明け前だった。
遺体の発見者は資材置き場に来た、新人の工事関係者だった。
漣は規制線の前に立ちながら、その不運な新人に対して申し訳なさを抱いていた。
――自分が最後まで立ち会っていれば。
規制線の内側で、鑑識のマーカーが七番まで進んでいる。積まれた資材の脇に、青いシートが立てられていた。頭の上を、始発からの電車がもう何本も過ぎていく。
漣はシートの端をつまんだ。
めくる前の一拍が、今朝はいつもより長かったが、意を決して確認する。
横たわっていたのは、予想した通り遠藤茂だった。
口が耳まで裂かれている。破れた上着の肩が、そのままになっていた。広げたままの両腕が、何かを迎えた形で草の上に残っている。
「逃がした晩に、これか」
声は自分で思うより低く出た。
「手口はこれまでと同じです……が、争った跡はありません」
長屋の目は、もう事件を見据えている。この2か月で、遺体から目を戻すのがずいぶん早くなった。それを喜べる者は、この現場に一人もいない。
昨夜二人は、署に戻らなかった。
検問は間に合わず、駅の防犯カメラにも遠藤は映っていなかった。長良川沿いを二度捜索し、ネットカフェを回らせ、空振りの報告を無線で聞き続けた。この資材置き場は、夜が明けてから回る手はずだった。数時間の差で、こうなった。
日付が変わるころには、鑑識から連絡も入っていた。
ゆうべ太郎から預かったハンカチ。八百津夏織の所持品だったが、三人分の血液が検出されたということだった。一つは劣化がひどく判別できないほど古いもの。あとの二つはここ最近のもので、そのうちの一つが矢内明義のものと一致した。受話器を握ったまま、漣はしばらく声が出せずにいた。
太郎の危惧していた最悪の想定が当たってしまった。おそらく、遠藤を殺害したのも太郎の予想で間違いはないだろう。
「口裂け女なら、本望ってか」
長屋が手帳を閉じる。
「この人も、被害者になるんでしょうか」
「形式上はな」
「じゃあ、被疑者の欄は」
「……8月7日の一件と、同一犯として洗い直しやろな」
長屋のペンが、止まった。
「矢内さんを殺した何者かが、遠藤も殺したってことですか?」
「そう書くほかないやろ」
言いながら漣自身が、その考えを信じたくない思いを抱いていた。
「会見は」
「昼や。手口の詳細は伏せる」
規制線の外に、スマホを構えた人影がもう二つ三つ見えていた。伏せたところで、もう遅いのかもしれない。
長屋は、それ以上の言葉を呑み込んだ。
漣はシートを戻して、ため息をついた。
46年前に三人。この夏に二人。結果として五人の口を裂いた男が、裂かれる側になって朝の光の中にいる。
「太郎の言う通りやったら、やりきれんわ」
立ち上がって、規制線の外へ目をやった。
和傘をたたんだ太郎が、立っていた。いつからいたのかは、わからない。その姿を見て、伝える順番に迷った。遠藤の死と、ハンカチの結果。どちらを伝えても、もう取り返しがつかないことに変わりはない。漣は深くため息をついた。
*
規制線をくぐって外へ出てきた漣に、太郎は声をかけた。
「鑑識の結果は出ましたか?」
太郎の声は静かだった。シートのほうへは、目を向けない。見なくても予想はついているのだと、漣にはわかった。
「……矢内明義のもんで、間違いないそうや」
太郎が、目を落とした。
「お前の依頼人がやったんやな」
「……はい」
漣は、シートのほうへ一度だけ目をやった。
「取調べで遠藤が言うとった、本物の口裂け女っちゅうのは、あの子のことか」
口にしてから、顔をしかめる。刑事の口から出る問いではなかった。それでも、あの遺体は刑事の言葉では説明がつかない。
「46年前にこの町で生まれた口裂け女の噂。遠藤の凶行と、遠藤自身が撒いた噂で、それがまた蘇った。……いまは、あの人に取り憑いています」
「取り憑いた、て」
「あの人に、事件の記憶はありません。自分が何をしたのかも、知らない」
「……そんなもん、信じられるか」
「信じなくていいです。ただ」
太郎が、初めてシートのほうへ目を向けた。
「死を受け入れたような逃亡犯の遺体。……漣さんの言葉で、あれを説明できますか」
漣は、答えなかった。
代わりに懐から、袋に入ったハンカチを出して、太郎へと差し出す。
「明日までに返せ」
「いいんですか?」
「いったん鑑識の結果は出とる。バレなんだらええんや」
いつもの憎まれ口の言い方をした、規則も手続きも飛ばしたやり取り。漣が一人で責任を取ると決めて、この袋をここへ持ってきたのだった。
太郎の手が袋を受け取って、握る。
何かを言いかける太郎に対して、漣が釘を刺すように言った。
「一人で背負うな。頼むで」
太郎が深く頭を下げた。
漣はそれ以上何も言わずに、シートのほうへ戻っていく。
背中で、和傘のひらく音がした。
漣は振り返らなかった。あの傘の下の男が、これから何をするつもりなのか。聞かないでおくと決めたのは、漣自身だった。




