第38話 8月20日 訊いてくれ
高架の下は、車の音でできている。
音は夜になっても絶えず、その下はかえって静かだ。
橋脚の並ぶ暗がりに、工事の資材が積まれ、青いシートが半分ずり落ちたままになっている。
シートの端が、風もないのに一度めくれて、戻った。
橋脚の根元には、誰かの捨てた自転車が一台、長く倒れたままでいる。街灯の光は、いちばん近いものでも遠かった。
資材の陰に、遠藤茂がいた。
積まれた鋼材に背を預け、荒い息をついている。上着の肩が破れ、部屋着のままの膝は土で汚れている。靴は、片方の紐がほどけたままだ。
逃げてから、半日以上がたつ。日のあるうちは資材の隙間で身を縮め、夜が来てからは、この暗がりから動かずにいた。ポケットの写真を何度も出しては、しまう。66歳の身体は、とうに走れなくなっていた。
缶の転がる音を、風がひとつ運んでいった。
遠藤の息だけが、暗がりで続いている。吸って、吐いて、そのたびに肩が上下した。
車の流れが、一瞬だけ途切れた。その静けさの底で。
遠藤の耳に、足音が聞こえてくる。
ゆっくりとした、規則正しい足音だ。急いでもいない。ためらってもいない。橋脚の向こうの暗がりから、こちらへ近づいてくる。砂利を踏む音が、車の音の下ではっきり聞こえた。隠す気が、なかった。
遠藤が顔を上げた。どうやら自分を探す警察の靴音でないことはわかる。不意にその足音が止まった。
暗がりの奥に、マスク姿の女が立っていた。
白い半袖が、遠い街灯の光をかすかに拾っている。マスクの上の目は、遠藤を見ていた。まばたきをしない。髪のひと筋も、乱れていない。立っているのに、そこにいないかのような立ち方をしていた。
「……ああ」
遠藤の口から、声がこぼれた。
怯えの声ではなかった。まるで想い人を待ち焦がれていたかのような声。
膝立ちのまま、遠藤は女のほうへ這い寄っていく。砂利が、膝の下で鳴った。痛みを感じている様子はなかった。
「あんたやろ。あんたやな」
呼び方を、この男はほかに持っていなかった。
女は答えない。
立ったまま、近づいてくる男を見下ろしている。
その口元から、ずるりとマスクが落ちる。
耳まで裂けた口が、暗がりの中に浮かぶ。
その姿は、口裂け女そのものだった。
遠藤の目が、それを隅から隅まで見た。確かめて、深くうなずく。
遠藤は、両手を広げた。
迎え入れるような、祈るような形をしていた。破れた上着の袖が、腕から垂れ下がる。46年前に人の口を裂いた手が、いま開かれて待っている。
「訊いてくれ。ワタシ、キレイ?って」
口裂け女は、無言のまま遠藤を見下ろしている。
その目は開かれたまま動かない。何を映しているのかは、誰にも見えなかった。
「46年前にあんたを生んだったんは、俺やろ」
声が、震えていた。
寒さでも、恐怖でもない。46年、この夜を待っていた者の震えだった。
口裂け女は、何も答えない。肯定も否定も、その顔にはない。顔にあるのは、裂け目だけだった。
口裂け女の手が、伸ばされる。
白い指さきが、暗がりの中をゆっくりと男へ近づいていく。
遠藤は逃げなかった。目を閉じもしなかった。広げた両手だけが、小さく震え続けている。
「……なあ、訊いてくれや」
指先が、あと少しで届く。
遠藤の頭の上を、電車が走り抜けていった。
長い音だった。窓の明かりの列が、橋脚の間を流れていく。その光が、高架下の暗がりを何度も細くなでた。
音が過ぎたあと、高架の下は、また車の音だけに戻った。
誰の声も、もうしなかった。




