第37話 8月20日 残されたハンカチ
夏織が飛び出してから、1時間近くがたっていた。
太郎は、柳ケ瀬庵に残った。誰かが残らなければ、戻る場所が留守になる。
夜の奥の間に、一枚のハンカチが残されていた。
布団の脇の畳の上、握っていた形のまま落ちている。テーブルに置かれた麦茶の湯呑みは三つとも手つかずのままだ。太郎はハンカチを、拾い上げた。
なめらかな白い布に、赤い糸の刺繍。
その隣に、古い茶色の染み。その脇にある2つの薄くなった、小さな染み。
二つの染みを、太郎は長いあいだ見ていた。畳んで、白い紙に包み、胸元へしまう。
戸口のほうで、足音が二つ戻ってきた。
祐太郎と美琴が、息を切らせて土間に立っている。二人とも汗が首まで伝っていた。祐太郎の膝には土がつき、どこかで一度、転んだらしかった。
「駅のほうにも、いませんでした」
美琴の声が、途切れ途切れに言う。
商店街、川べり、アパートへ続く道。手分けして走った先の、どこにも夏織はいなかった。交番にも寄ったという。それ以上は、家族でないと難しい。暮れかけていた空は、もう夜になっている。
「太郎さん、何が視えたんですか」
祐太郎の声は、低かった。
押し倒したことも、振り払われたことも、忘れたように問いかける。答えだけを、まっすぐ求める瞳が太郎を見つめる。
胸元のハンカチの上に、手を当てる。視えたものを、どう答えればいいのか。言うべき言葉が、すぐには見つからなかった。
言わないという道も一度は見えたが、すぐに捨てた。隠せばこの先のどこかで、もっと悪い形でひらくかもしれない。
「矢内さんを手にかけたのは……夏織さんです」
祐太郎の喉が動いた。声は、出てこなかった。
「そんな」
美琴が、口元を手で押さえる。そんな、の続きは出てこない。
「……視えたもんが、証拠になるんですか」
祐太郎の声は低いままだった。
「なりません。警察に出せるものは、何一つありません」
太郎は言い訳を足さなかった。
「ほんなら」
「それでもそのことを認めない限り、これ以上前には進めない」
祐太郎が、次の言葉を探す。
「呪いが、あの人にやらせたっちゅうことですか」
「……わかりません」
わからない、と太郎ははっきり言った。
「わかっているのは、視えたものだけです。呪いが夏織さんを乗っ取ったのか、夏織さんが動かしたのか。その境界は、まだ視えていません」
「覚えとらんのに、罪になるんですか」
「僕の仕事は罪を裁くことじゃありません」
太郎は、胸元に手を当てた。
「僕がやらなければならないことは、一つだけです。依頼を降りない。……僕の依頼人は、いまも夏織さんです」
その言葉にはっと目を見開く祐太郎。そして、唇をかみしめながらうつむく。
「……すみませんでした。俺は」
その先の言葉を聞く前に、太郎がそれを遮る。
「一緒に夏織さんを、助けさせてください」
それ以上は言葉にせず、ただ頭を下げる祐太郎。
美琴が、濡れた目のまま顔を上げた。
「一件目と三件目は遠藤で、二件目だけが、夏織さん……。なんで夏織さんはそんなことを」
「今はまだわからない。……でもきっと何かつながりがあるはずだ」
土間の暗がりに、三人の影が立ったまま、しばらく誰も動かなかった。換気の窓から、アーケードの明かりが細く差しこんでいる。祐太郎は、畳の写真を見ないようにしていた
最初に動いたのは、祐太郎だった。
「……もういっぺん、探してきます」
「待ってください」
太郎の声がそれを止めた。
「闇雲に走っても、夜の街は広すぎます。それに」
言いかけて、太郎は一度、言葉を選び直した。
「いま夏織さんに追いつけたとして、かける言葉の用意が、僕たちにはまだない」
祐太郎のこぶしが、握られて、ひらかれた。
かける言葉のないまま追いつかれることが、いまの夏織にとって何になるか。わかっていて、それでも足は土間の戸を向いている。その足を、祐太郎は自分で押さえつけていた。
「美琴ちゃんは、家に帰ってください。迎えを呼びます」
「……はい」
返事の素直さが、かえって美琴の限界を語っていた。
太郎は呼びつけたタクシーに住所を伝え、美琴を乗り込ませる。後部座席から制服の背中が何度も振り返っては、そのたびに小さく頭を下げた。
土間の靴脱ぎに、夏織の履いてきた靴はもうない。
遠藤が夜の街のどこかにいて、夏織も夜の街のどこかにいる。二つの行方不明が、同じ夜に並んだ。
太郎は胸元に手を当てた。布ごしのハンカチが、そこにあるのを感じる。このハンカチが彼女にとって何なのかを、太郎はまだ半分しか知らない。
夜は、始まったばかりだった。




