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第36話 8月20日 占事(夏織)

 夕方、布団に半身を起こせるくらいには、力が戻っていた。


 かたわらに祐太郎さんが座り、美琴ちゃんが麦茶を運んでくる。盆の上の湯呑みは三つで、どれも少しずつ形が違った。


 障子が開いて、太郎さんが入ってきた。

 いつもと、何かが違う。畳に座る前の雰囲気で、そう感じた。太郎さんは、わたしの正面に座った。それが、もう違う。この人はいつも、少し斜めに座る人だった。


「一つお聞きしたいことがあります」

「……何でしょう?」

「夏織さんが依頼に来た日、帰宅後の記憶はありますか?」


 依頼に、来た日。

 8月7日。マスクが落ちて、川べりで血が出て、夜にこの庵へ来た日。太郎さんに送り出されて、戸口で頭を下げて、それから。


 それから、が、なかった。


 朝、アパートの布団で目が覚めたことは覚えている。間が、そっくり抜けていた。眠って忘れたのだと、今の今まで思ってもみなかった。


「依頼に来た日……。すみません、覚えていません」


 膝の上で、ハンカチを握った。

 美琴ちゃんが、手帳をめくる。


「8月7日……。その日何かあったんですか?」


 太郎さんは答えずに、懐から一枚の写真を出した。

 畳の上を、こちらへ滑らせる。


「これは夏織さんのものですか?」


 写真には、折り畳み式の鏡が写っていた。

 白い縁の、手のひらに収まる小さな鏡。見た瞬間、胸の奥で何かが、ことりと音を立てた。


「これって……、夏織さんが犯人やっちゅうんか!」


 畳が鳴った。

 祐太郎さんが太郎さんの胸ぐらをつかんで、押し倒していた。


「祐太郎さん!」


 美琴ちゃんとわたしの声が、重なる。


「呪いはほっといて犯人探しか!」

「夏織さんの呪いを解くために必要なことだ!」


 太郎さんが、声を荒げた。

 初めて聞く、太郎さんの大きな声だった。二人は組み合ったまま、にらみ合っている。祐太郎さんの肩が、大きく上下していた。


 わたしは、写真から目を離せずにいた。

 犯人。呪い。飛び交う言葉より先に、答えのほうが口をついて出た。


「……その鏡は、確かにわたしのものです。でもそれをどこで?」


 祐太郎さんの手が、ゆっくりとほどけた。

 信じられないといった表情で祐太郎さんの瞳がこちらを見る。

 その眼の中に宿った色に、わたしの胸の奥がずきん、と痛んだ。


「夏織さん……」

「どこで落としたかは覚えていませんか?」

「はい、失くしたものだと思っていました」

「いつから無いか、思い出せますか」

「……わかりません。気がついたら、鞄から消えていて」


 最後に使ったのがいつかも、出てこない。思い出そうとすると、そこだけ砂嵐がかかったようになる。


「誰かに、見せたことは?」

「ありません。誰にも言っていませんでした。……小さな、ただの鏡ですから」


 誰にも言わなかったものが、どうして太郎さんの写真の中にあるのだろう。


「なあ、さっきから何なんですか」


 祐太郎さんの声が、まだ硬いままで割りこんだ。


「その鏡がどこにあったんか、なんで言わんのですか」

「……それも含めて、確かめさせてください」


 太郎さんは、今度は質問を返さなかった。返さないことの重さだけが、畳の上に置かれた。

 それから太郎さんは、じっとわたしの目を見た。

 そして、懐から式盤を取り出す。


「太郎さん! ……夏織さんに、占事(せんじ)を使うつもりですか」

「せんじ?」

「隠してることや、忘れてしまったことを読む術です」

「隠しとるって……!」


 祐太郎さんの声が、また尖る。


「夏織さん」


 太郎さんが、わたしに向き直った。


「あなたの中の、抜けている夜の記憶を視ます。……いいものが視えるとは、限りません。それでも」


 それでも、の先を、太郎さんは言わなかった。決めるのはわたしだと、その目が言っていた。

 自分の声が、思ったより静かに出た。


「いいんです。何かがわかるなら……お願いします」


 抜けている夜が、ある。失くした鏡が、ある。わからないままのわたしで、この先を歩くほうがこわい。八百津へ行く前の夜、自分で決めたことだった。

 祐太郎さんが何かを言いかけて、わたしの方を向く。


「……夏織さんは、ええんか」


 不安の入り混じる瞳。でもその奥には純粋にわたしを心配してくれている、いつもの光があった。

 この人がいてくれるなら、わたしは大丈夫。

 祐太郎さんへうなずき返すと、祐太郎さんは腰を下ろしてくれた。


「でも、式盤展開よりずっと」

「みこちゃん」


 太郎さんの一言で、美琴ちゃんは言葉をのみこんだ。

 その美琴ちゃんの表情には、どうしようもないさみしさがあった。

 それでも太郎さんはわたしの方を向き直る。


「僕の目を、見ていてください」


 左の手のひらに、式盤がのせられる。

 わたしの目の高さまで、ゆっくりと上がってきた。天盤の丸い縁を、太郎さんの指が一本だけ、静かに回し始める。


「矢内明義について、知っていることは?」


 太郎さんの瞳が、黒く沈んだ。

 その黒の底が、ひらく。


 *


 ――夜。


 路地。ビルの隙間の、暗い。

 目の前に、誰かが倒れている。

 血に濡れた手が、鞄をさぐる。わたしの手だ。取り出した鏡が、ひらかれる。鏡面に、赤い雫が一滴落ちて。


 鏡の中に、口の裂けた女がいた。


 返り血を浴びた、わたしの顔だった。

 震える手がハンカチを出して、鏡面をぬぐう。それから、側溝の蓋の隙間へ、鏡を落とす。


 ――水の、音。


 走馬灯のように駆け抜けた自分の記憶。気が付けば、畳の上にわたしは戻っていた。

 太郎さんが、畳に手をついて息を吐いている。


「太郎さん?」


 美琴ちゃんの声も、遠くに聞こえた。太郎さんの目の色が、ゆっくりと戻っていく。その目は、わたしから離れなかった。

 肩が震え出した。自分の肩だということに気付いたのは少ししてからだった。


「……いま」

「夏織さん?」


 自分の両手を、見た。

 いまは、きれいな手だ。きれいな手のひらの上に、さっきの赤が、まだ見えている。


「血のついた、鏡に……」

「夏織さん」

「あれは、わたしですか」

「落ち着いて聞いてください」

「わたしが、殺したんですか」


 太郎さんが、膝でにじり寄ってくる。


「来ないで!」


 布団をはねのけて、立ち上がっていた。

 腕をつかまれた。


「待って! 夏織さん!」


 祐太郎さんの手だった。あたたかい、大きな手。いつも助けてくれた手。

 その手を、わたしは振り払った。


 誰かの尻もちをつく音を背中に聞きながら、部屋を飛び出した。土間を抜け、戸を開け、暮れかけた路地へ。


「夏織さん!」


 祐太郎さんの声が、追ってくる。

 振り返らずに、わたしは走った。祐太郎さんと歩いた商店街の道を、その思い出を塗りつぶしてしまうほど速く。

 どこへ、ではなかった。

 誰にも、わたしを見つけられないところへ。わたしがいちばん、わたしを見つけたくなかった。


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