↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/96

第35話 8月20日 白木町

 遠藤逃走の一報は、昼前に漣(さざなみ)から届いた。受話器を置いてから、太郎は庵の戸締まりを一つずつ確かめた。

 逃げた男がここへ来る理由は、考えても出てこない。それでも、備えない理由にはならなかった。


 昼下がりの柳ケ瀬庵の畳に、事件の資料が広げられている。

 帽子の写真。差し歯の写真。地図のコピー。漣が置いていった分と庵の帳面と、二つの線がようやく一枚の畳の上にそろった。昼の光が、硝子ケースの水うちわを白く光らせている。その前に、太郎と漣が座っていた。奥の間の障子は、閉めてある。夏織は眠り、祐太郎と美琴が付き添いで残っていた。


「すまん、こっちの落ち度や。最後まで俺も立ち会うべきやった」


 漣が、頭を下げた。その頭の白いものが、ゆうべより増えて見えた。

 護送用の車両から、遠藤は消えた。検問は間に合わず、足取りはつかめていない。ここへ来るまでの間も、漣の懐で無線は鳴り続けていた。いまも短く鳴り、漣は二言で返して切る。そのたびに、顔の疲れが一段濃くなった。


「ただ特定はできたわけですから、次は」

「ああ、次はない。……ただ何しよるかわからん。気ぃつけてくれ」

「わかりました」


 逃げた男の行き先より、目的のほうが読めなかった。備えるしか、できることがない。


「ただ一つ妙なことがある」

「妙?」

「二件目の事件な、遠藤にはアリバイがあった。本人も否定しとる」

「二件目、ですか」


 太郎の声は、静かなままだった。アリバイ。個室の記録。否認。聞かされた三つを、畳の資料の上に音を立てずに並べる。その列の先で、鏡の写真が待っていた。


「模倣犯が出始めとる可能性もある。美琴ちゃんにも気を付けるよう頼むわ」


 漣はもう一度頭を下げて、立ち上がった。戸口で一度だけ奥の間を振り返ったが、何も言わずに出ていった。


 *


 一人になった店内で、太郎は畳の写真を順に手に取った。

 室外機の陰の、つばの折れた帽子。

 土の中から出た、小さな差し歯。

 どちらも、遠藤へつながった。事件は半分ほどけて、残りの半分が目の前にある。


 水路の、折り畳み式の鏡。

 帽子と差し歯の男に、この鏡だけが最後まで馴染まない。一枚だけ、別の持ち主を探している。


 太郎は写真を手にしたまま、地図を引き寄せた。矢内明義の遺体が見つかった路地を、指でたどる。


「矢内明義の殺害現場は……白木町」


 帳面をめくった。依頼の日に控えた、夏織の住所のページ。


「白木町……!」


 同じ三文字が、帳面と地図の上に並んでいた。


 矢内が殺された路地と、夏織の暮らすアパートは、同じ町内にある。歩いて回れるほどの、狭い町内に。あの夜、依頼を受けて帰した客が、どの道を通って帰ったのか。太郎は初めて、それを考えた。


 偶然、という言葉を、太郎は一応手に取ってみたが、すぐに置いた。

 八百津の山で見つかった人が、市内のあの町に住まいを世話された。その町の路地で人が死に、その水路から女性が使うような鏡が出た。偶然と呼ぶには、つながりが多すぎた。


 太郎は写真を三枚、並べ直す。

 帽子。差し歯。鏡。


 二枚は遠藤のものだった。残る一枚の持ち主を、確かめなければならない。

 確かめる方法は、残り少ない。本人に聞く、というのが一つ。聞いて答えが出なければ、その先がある。それを使う自分を、太郎は静かに想像した。

 懐の式盤の重みを、布の上から確かめる。


 襖の向こうで、身じろぎの気配が一つした。誰のものかは、わからない。

 奥の間の障子は、まだ閉まったままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。