第34話 8月20日 アリバイ
8月20日の朝だった。
事件のある朝ほど、署は静かに始まる。誰もが声を落とし、足だけが速くなる。その廊下を、漣は不機嫌な早歩きで進んでいた。
ゆうべの取調べは、あのまま打ち切った。本物の口裂け女。あの笑い声を思い出すたび、寝不足の頭の芯が重くなる。
打ち切ったあと、遠藤は留置場で夕食を平らげ、消灯と同時に眠ったという。漣には理解のできない神経が、報告書の一行になって朝の机にのっていた。再聴取は、9時からの予定だ。仮眠室の毛布は、結局使わなかった。
後ろから、書類を抱えた長屋が小走りで追いついてきた。
「漣さん。遠藤のアリバイ、裏が取れました」
目の下に、薄い隈がある。8月7日の晩の所在を、遠藤は知らんとしか言わなかった。その足取りを、長屋はひと晩で洗ったらしい。
「8月7日か」
「20時から翌朝まで、ネットカフェの個室です。入退室の記録も防犯カメラの映像も残ってました」
「ネットカフェ?」
「遠藤の所持品にネットカフェの会員証がありましたから。もしかしてと思って」
歩きながら、差し出された書類をめくる。
会員証の記録。入店は20時58分、退店は翌朝の6時すぎ。店内の見取り図を見る限り、出入りするのにカメラの前を通らないのは不可能だ。
「見落としは……、聞くまでもないか」
「はい、3回見直しましたから」
矢内明義が殺されたと見られる時間、遠藤茂は個室の中にいた。
その事実が漣の気持ちを、より重いものにさせた。
「……模倣犯っちゅう線も考えなあかんな」
言いながら、言葉の据わりの悪さを自分で感じている。手口は同じ。場所の並びも、46年前をなぞっている。なのに一件だけ、実行者が違う。
模倣犯という言葉は、その一件だけ器用に間へ挟まった何者かを指すことになる。
あの晩、遠藤が個室で眠っていたのなら、あの老人を殺したのは誰だ。
取調室の笑い声が、耳の奥で戻ってくる。あの言葉を報告書に書ける形は、この世のどこにもない。
長屋は、まだ何か言いたそうにしていた。中身はたぶん、漣と同じだ。だから、どちらも口にすることはなかった。
廊下の先を、警官たちが走り抜けていった。
一人ではない。三人、四人。階段のほうから怒鳴り声が上がり、無線の音があちこちで一斉に立ち上がる。切れ切れの声が、60代の男、と繰り返していた。
漣は、手近な一人を呼び止めた。
「なんの騒ぎや」
「遠藤茂が、送検の護送中に逃走しました!」
一拍、意味が遅れて届いた。
検察庁までは、車で10分の距離だ。その10分の間に、66の男が消えた。年寄りの足なら遠くへは行けん、と考える余裕はなかった。
「何をしとるんや、たわけ!」
怒鳴りながら、頭の別の場所が冷えている。ゆうべの取調室に、逃げたがる人間は座っていなかった。
あの男に、逃げる理由があったか。
漣は書類を長屋へ押しつけて、走り出した。長屋が、抱えた束ごと追ってくる。
廊下の窓の外は、何も知らない朝の色をしていた。




