第33話 8月19日 捕まった夜(夏織)
目をあけると、見覚えのある天井があった。
口の中に、鉄の味が薄く残っている。眠りから覚めるのに、少しかかった。まだ頭の隅に、もやがかかっているような感覚がある。
柳ケ瀬庵の、奥の間だ。枕元の小さな明かりだけが、畳を丸く照らしている。2か月前までは、白い天井しか知らなかった。見覚えのある場所が少しずつ増えて、わたしはその一つでまた寝かされている。
「夏織さん!」
美琴ちゃんの顔が、のぞきこんできた。
「……ここは」
「柳ケ瀬庵や。八百津から、運んできた」
祐太郎さんの声は、かすれていた。シャツの背中に、点々と染みが見える。わたしの血だ。ごめんなさい、と言いかけて、言えばこの人がまた困る気がして飲み込んだ。
八百津。空き家。閉じた雨戸。表札の白い跡。途切れる前の記憶が、順に戻ってくる。口元のガーゼが、前より大きい。
起き上がろうとして、顔がゆがんだ。
「まだ寝ててください」
美琴ちゃんの手が、肩をそっと押し戻す。額の手ぬぐいが、冷たいものにのせ替えられた。ちょうどよくなるまで、何度も絞り直してくれていたのだと思う。
枕に頭を戻すと、畳まれたわたしのマスクが枕元に見えた。洗って、干して、畳んでくれた誰かがいる。
土間のほうで、電話の切れる音がした。足音が近づいてくる。
障子が開いて、太郎さんが入ってきた。
「犯人が、捕まりました」
すぐには、意味にならなかった。
「……犯人」
「46年前の事件を起こした男です。さっき漣さんから逮捕の知らせを受けました」
46年前。
美琴ちゃんのノートにも書かれていた事件。わたしと同じ傷を三人に残して、噂の始まりになった事件。顔も知らない誰かが、46年をまたいで、わたしの口元とつながっている。その因果が、今夜切れるはずだった。
「ほんなら、呪いは」
祐太郎さんの声が、先に跳ねた。
同じ問いが、わたしの胸でも立ち上がっている。こわくて、口に出せなかった。
太郎さんが、枕元に膝をついた。
「失礼します」
口元のガーゼが、そっとめくられる。
夜の空気が、傷に触れた。傷の端が顔のどこにあるのか、感覚ではもうわからない。
太郎さんの目が、傷の上で止まった。
長い沈黙だった。
この人はいつも、言葉を先に置いてくれる人だったのに。めくったガーゼを持つ指も、傷を見る目も、何も言わない。その無言が、答えより先に届いてしまう。
――どうして、まだ。
「……なんで」
美琴ちゃんの声が、震えた。
祐太郎さんが立ち上がって、太郎さんの前に出る。広い背中が、今夜は行き場のない形をしていた。
「なんで……治らへんのですか」
答えるかわりに、太郎さんは深く頭を下げた。
「……もう一度考え直してみます」
頭を下げないでください、と言いたくて、言えなかった。下げられた頭の分だけ、事の重さが枕元に積もっていく。
誰も、何も言わない。タライに手ぬぐいをつける音が、一度した。
音の方を向くと、手ぬぐいを水に浸している手の奥に美琴ちゃんのスマホが見える。
画面に、太い見出しの文字が一瞬見える。世界はもう、事件の終わりを報せていた。
終わっていないのは、わたしの口元だけだった。
犯人は、捕まった。それでも、傷は広がっている。
その日は眠気がなかなか来なかった。柱の鳴る音。遠くで鳴る車の音。誰かの、押し殺した息。柳ケ瀬庵の夜の音を、一つずつ数える。
わたしは目を閉じる。
まぶたの裏に、閉じたままの雨戸が浮かんだ。
あの家は、まだそこに立っている。




