第32話 8月19日 俺が生んだ
取調室の壁は、灰色だった。窓のない部屋では、夜も昼も同じ色をしている。
逮捕から、2時間もたっていない。スチールの机をはさんで、漣と遠藤が向かい合った。記録席には長屋がつき、ペンをかまえている。夜の取調べは、時計の音だけがよく聞こえた。
遠藤は背筋を伸ばして座っている。
うなだれも、ふんぞり返りもしない。何も知らない者が見れば、まるでただの証言者のような行儀のよさで座っていた。
「6月17日の夜、長良川沿いにおったな」
「もう裏ぐらいとっとるんやろ」
否認の色は、最初からない。
漣は3件目の現場付近で見つけた帽子を遠藤の前に出す。
「これは先週、8月13日の殺しの現場に落ち取ったもんや。お前のか」
「刑事さんが拾ってくれとったんかい。それ気に入っとるんや、ありがとうな」
ひょうひょうとした遠藤の答えを、長屋のペンが書き取っていく。二件の犯行をあっさりと認めた遠藤に、漣は舌打ちで返した。
「なんで、また同じことをやった」
遠藤は、机の上で指を組んだ。
節が太く、爪は短く切りそろえられている。切り抜きの角と同じ、几帳面さが見える指だった。
「46年前によ、俺が生んだんや」
「何をや」
「聞いたことあるやろ。……口裂け女や」
長屋が顔を上げる。
「人の口を裂いて、この世に生んだった。そこから噂がどんどん広がり始めてな」
遠藤の目が、じっと長屋を見た。
「あんた、子どもは……こんな仕事しとったらおるわけないか」
鼻で笑う遠藤に対し、机を叩いてけん制する漣。
「余計なことしゃべらんでええんや。長屋も口なんざきかんでええ」
「ならわからんやろなぁ。自分の生んだもんが、日本中を歩き回る。親として誇らしい気分や」
口を裂いて殺すということと、生んだという言葉の間の距離を、この男は一度も歩いたことがないらしい。
長屋は嫌悪感よりも、ただひたすらにおぞましさに吐き気を感じた。
「異常者の気持ちなんざわかるわけないやろ」
「ムショから出た時はそりゃあショックやったわ」
遠藤はため息をついて、天井を見上げる。見るものなど、何もない天井。それでも遠藤の目は、そこに続きを見ているようだった。
「今じゃ誰も、口裂け女のことを噂してへん。……やから」
机へ身を乗り出す。
「もういっぺん生み出したろうと思たんや」
長屋のペンが止まる。
「……噂を撒いていたのは、あなただったんですか」
「長屋」
たまらずに尋ねた長屋を、漣が制止する。
「もう口裂け女のことを覚えてないとは言わさへん」
自分を見つめる遠藤の狂気の宿った瞳に、長屋の字が初めて乱れる。
椅子の脚が、床を鳴らした。
立ち上がった漣の背広を、長屋が後ろからつかむ。
「漣さん」
漣は息を吐いて、座り直した。机の下のこぶしは、開かないままだった。
「そんな妄想で三人も殺されなあかんかったんか」
「三人?」
遠藤の首が、初めて傾いた。しらを切っている様子はない。
「ああ? 6月に一件、今月に二件ちゃうんか」
「俺が殺したんは二人だけや」
部屋の空気が一段沈む。
長屋のペン先が、紙の上で浮いたまま止まっていた。
「8月7日の晩にも一人殺しとるやろ」
「知らんな」
認めるときと同じ声で、否認だけが伝えられた。
「被害者は矢内明義や。あんたの、大学の先輩やろ」
遠藤は、こらえきれないように笑い出した。
肩を揺らして、声を立てて笑う。取調室で聞くには場違いな笑い声だ。長屋が、椅子ごと少し引く。
漣が、机を叩いた。
「何がおかしいんや!」
くつくつと笑いを口の端に残したまま、遠藤は言った。
「現れたんとちゃうか? ……本物の口裂け女が」
本物の口裂け女、という言葉だけが、灰色の壁に残った。




