第31話 8月19日 踏み込み
遠藤の住むアパートへ漣が到着したのは21時を過ぎたころだった。
差し歯の照合から令状まで、半日とかからなかった。46年前の記録が、審査の背中を押した形だったのだろう。
夜の古いアパートに、足音だけが上がっていく。
錆の浮いた手すりの続く、二階の外廊下。蛍光灯がところどころ切れて、明るい場所と暗い場所がまだらになっている。どこかの部屋から、遅い夕食の匂いがした。日常の夜の中でその扉だけが異質に感じられた。
一番奥の扉の前に、漣と捜査員たちが音もなく並ぶ。
表札は出ていない。新聞受けにチラシの束が詰まったまま、電気メーターだけが静かに回っている。中に、人がいるのは間違いなかった。
「長屋、時間とっとけよ」
「はい」
長屋が腕時計を確かめて、手帳をかまえる。
「三人殺しとる連続殺人犯や。絶対に気ぃ抜くな」
「はい」
返事は硬く、震えてはいなかった。長屋は一度だけ深く息を吸って、吐く。
捜査員たちが、扉の両側でうなずき合った。
漣が、扉を叩く。
拳の音が、夜の廊下に響いた。
「岐阜県警や! 遠藤茂、開けえ!」
部屋の中から、物音はしない。
テレビの音も、足音もない。それなのに、扉の向こうには人の気配がある。息をひそめているのではなく、ただ動かずにいる。
漣がノブを回す。鍵がかかっていた。
二度は呼ばなかった。目配せ一つで捜査員の一人が工具を出し、錠の壊れる鈍い音とともに扉が開いた。
カーテンを閉め切った、薄暗い部屋だった。
懐中電灯の輪が、暗がりを順に切り取っていく。床に積まれた本と雑誌の山。壁一面の切り抜き。赤い印の並んだ地図。光が過ぎるたび、口裂け女の文字が浮かんでは消えた。
部屋のまん中のちゃぶ台の前に、遠藤が正座していた。
台の上には湯呑みが一つと、封を切っていない棒の飴が一本。灰皿には、舐めきった棒が同じ向きに並べてある。電気も点けず、ずっとそうしていたらしい。ゆっくりと、顔だけをこちらへ向けた。
電灯が点くと、遠藤はまぶしそうに目を細めた。66歳。記録の写真より、痩せて見える。
「遠藤茂やな」
「……なんや、えらい騒がしいな」
迷惑そうな声だった。捜査員が腕を取っても、抵抗しない。立ち上がる動きまで億劫そうに遅く、暴れる気配を探していた捜査員たちの肩が、かえって置きどころを失った。
「口、開けてみい」
漣が、顎をつかんだ。
言われるまま、遠藤は大きく口を開ける。ペンライトの光が、口の中を照らした。
奥の歯が一本、欠けたまま黒く沈んでいる。
「一人目の被害者と喧嘩でもしたんか」
「思ったより暴れられてな。慰謝料請求したいくらいや」
口元が、にやつく。
次の瞬間、遠藤はちゃぶ台の脇にたたき伏せられていた。
「漣さん!」
長屋の声が飛ぶ。手帳を持ったまま、漣と遠藤を交互に見た。
「捕り物中の不可抗力や。連れていけ」
漣は手を払って、背を向ける。引き立てられながら、遠藤は薄く笑ったままでいた。畳の上を、部屋着の膝が引きずられていく。
部屋に、静けさが戻った。
漣は、壁に張られた記事の切り抜きと地図の前で足を止める。
切り抜きはどれも、記事の白が定規で測ったのだろうか、同じ角度で並んでいた。地図にはまん中に、赤い印が三つつけられている。
そのうちの一つのわきに、写真ほどの大きさの、日焼けしていない跡があった。地図の隅には、画鋲が一つだけ刺し直されている。
剥がしたのは、この部屋の主だ。剥がして、どこへ持っていった。
長屋が、跡の写真を撮る。フラッシュが一度、部屋を白く飛ばした。
外の廊下で、遠藤を乗せる車の音がした。
*
同じ夜、連続殺人犯逮捕の報せが、市内の商店街を騒がせた。
高校生の二人組が、スマホをのぞきこんでいる。画面に『岐阜市連続殺人事件 66歳の男を容疑者として逮捕』の見出し。すれ違う声が、あちこちで同じ話をしていた。
「捕まったんやて」
「なんや、口裂け女って、女ちゃうやん」
本屋の店先で立ち読みしていた男が、口裂け女が見出しの週刊誌を閉じて本棚に戻した。




