第30話 8月19日 深まる謎
日暮れ前、祐太郎からの電話を受けて、太郎は駅まで迎えに出た。タクシーの座席で、夏織は祐太郎の肩にもたれたまま目を覚まさなかった。
柳ケ瀬庵の奥の間に運び込み、太郎が急いで処置を施す。
「みこちゃん、タライに水を張って持ってきて。あとは清潔な手ぬぐいを」
手際よく準備をする美琴を見ながら、祐太郎はただ茫然と眺めていることしかできなかった。
タライの水に、美琴が手ぬぐいを浸して夏織の顔に張り付いた血をぬぐう。水面に、天井の明かりが揺れている。布団の夏織の口元から、太郎は古いガーゼを剥がしていった。
口元の裂け目は、頬の半ばを越えていた。
病院で縫われた痕を越えて、花火の夜にはなかったところまで伸びている。太郎は消毒を済ませ、新しいガーゼを当てた。
祐太郎が夏織の枕元へ寄って、膝をついた。
八百津から夏織を背負って、バスと電車を乗り継いできた。シャツの背中に、乾いた血が点々と残っている。着替えを勧めても動かず、一度だけ、すみません、と言った。
「八百津の神社に行こうとしたら、空き家の前で急に立ち止まって」
声だけは、報告の形を保っていた。
「それまでは、なんともなかったんですか?」
「特に、弁当も普通に食べとったし。でもあの家を見てから……そういえば近づこうとしとったかもしれません」
「知ってる家だったんですか」
美琴が、絞った手ぬぐいを差し出しながら訊く。タライの水を替えに立つたび、障子は音を立てずに開け閉めされていた。
「本人は、わからんて」
美琴が、手を止めた。
「八百津って、夏織さんが見つかった町ですよね」
「せや。……今日は、気晴らしのつもりやったんやけどな」
祐太郎の声が、途中で細くなる。
太郎は手ぬぐいを受け取って、夏織の口元をぬぐった。血は止まっている。眠りは深く、呼吸は規則正しい。それだけが、救いだった。
「噂が広まっているから……じゃないんですか」
美琴の声は、自分でも信じていない声だ。
「にしては進行が急すぎる気はするね」
太郎は、ガーゼの端を留めた。
噂は、ゆっくりした火だ。今日の進み方は、それとは別の速さをしている。空き家という一点で、堰が切れたような速さだった。
「あの家、なんか関係あるんですかね」
祐太郎の問いに、太郎はすぐには答えなかった。
表札の外された古い家。近づこうとした足。開いた傷。明らかにつながりがあるように見えるが、現状では何の手掛かりも見つかっていない。
土間のほうで、電話が鳴った。
太郎は土間へと行って、受話器を取った。
「はい、柳ケ瀬太郎ですが」
「太郎か。差し歯、当たったぞ」
漣の声に、抑えた高ぶりがある。
「一致したんですか」
「形も材質も、遠藤茂の治療記録と同じや」
「記録が、残っていたんですか」
「8年前にムショの中でケガしたらしくてな。その時の記録が残っとったんや」
太郎は、受話器を握り直す。
6月18日の事件が、46年前の男とつながった。令状は、と聞きかけてやめる。あとは漣に任せるほかなかった。
「お前の出番はいったんここまでや。あとは任せえ」
「わかりました」
電話は短く切れた。気づくと美琴が横に立っていた。
「漣さんからですか?」
「うん。遠藤茂の逮捕に踏み切れそうらしい」
「じゃあ、これで夏織さんの呪いも」
うなずこうとして、首が止まった。黙り込んだ太郎に、美琴が問いかける。
「犯人が逮捕されれば、噂はどんどん風化していくんじゃないんですか?」
「それで間違いは……、ないと思う。ただ」
言いながら太郎は店内へと戻り、棚から呪いに関する資料を取り出す。
「遠藤茂の逮捕は1979年6月……。口裂け女の噂が終息したのは2か月後だったね」
「はい。一説には夏休みに入って子どもたちの口から伝わることが減ったからとも言われてますけど」
「それもあるかもしれないけど、事件が解決されたことで口裂け女の噂が、実行犯である遠藤に塗りつぶされたとみたほうが終息の早さに説明がつく」
太郎は、資料のページをめくり続ける。
「ただおかしいんだ」
「何がです?」
「今回の事件でまだわからない部分がある」
ページをめくる手を止めて、太郎は考え込んだ。
「まずひとつは矢内さんの事件。46年前の事件を合わせると被害者は6人。そのうち5人は二十代の女性なのに矢内さんだけが浮いている」
「それは何か理由があったんじゃ」
「そしてもう一つは夏織さんの傷。八百津の空き家との関係があるのは間違いないと思う」
太郎は、資料を閉じた。閉じた手が、表紙の上から動かない。まだ、終わっていないのではないか。裏づける事実も、否定する材料も、いまはどこにもなかった。
資料を棚へ戻して、太郎は奥の間へ目をやった。
「あの……、祐太郎さんにお茶を入れてきますね。太郎さんはどうしますか?」
「ああ……、それじゃあ僕ももらおうかな」
美琴が、湯を沸かしに行った。
襖の向こうで、夏織はまだ眠っている。枕元の二人は、動かない。
夜が、静かに深くなっていく。




