第29話 8月19日 初めての町(夏織)
バスは、山の間を1時間近く走った。
わたしの隣には祐太郎さんが座っていて、通り過ぎる景色を見ては、その場所の思い出を話してくれた。おばあさんと一緒にいろんな場所へ行ったことがあるらしかった。
窓の外が、建物から畑に、畑から濃い緑に変わっていく。座席は日に灼けていて、乗客はわたしたちのほか、買い物袋を提げたおばあさんが一人きり。
八百津町、と書かれた標識の下で、バスを降りた。
蝉の声が、四方から降ってくる。錆の浮いたバス停に、時刻表が貼られていた。並んだ数字は、1日に数本しかなかった。
「二人とも休んでよかったんですかね?」
「行ってこい、って。弁当まで持たせてくれたわ」
祐太郎さんが、はごろもキッチンの紙袋を軽く持ち上げる。
「……ありがとうございます」
「礼は、佐和子さんに言うたって」
祐太郎さんが、先に歩き出す。
わたしはもう一度、標識を見上げた。わたしの名字になった町が、白い空の下に立っている。2か月前、わたしはこの町のどこかで倒れていた。
バスが行ってしまうと、道はただ静かだった。
*
町なかを、あてもなく歩いた。
郵便局の前で、祐太郎さんが観光の地図を広げる。横からのぞくと、川と山ばかりの地図だ。石段の下で足を止めて、二人で上を見上げた。軒先の風鈴が、思い出したように鳴るのが聞こえる。
日陰を選んで歩くわたしを、祐太郎さんは日なたで待っていてくれた。
どの角を曲がっても、何も起こらない。何かを期待している自分と、何もなくてほっとしている自分。正反対の思いが、少しだけわたしを戸惑わせていた。
色の褪せた暖簾の下がった、古い駄菓子屋の前で、足が止まった。
店先は薄暗くて、奥までは見えない。それなのに目が、勝手に暖簾の内側をさがしている。何を、見ようとしているのだろう。
「なんかあった?」
「……ううん。何も」
首を振って、また歩き出す。嘘は言っていない。何もないのに足が止まる。その理由だけが、自分でもわからない。
「無理に思い出そうとせんでも、ええで」
「え?」
「今日は、気晴らしや」
その一言に、ムクムクと広がっていた、わたしの中の不安が晴れていった。
「……はい」
昼は、木曽川べりの石段で弁当をひらいた。
川幅が広く、水の色が濃い。長良川とは、匂いが少し違う気がする。マスクを外して、けいちゃんをひと口食べた。
「……おいしい」
「佐和子さんのけいちゃんもうまいよな」
「今度、食べ比べしましょうか」
「本人の前じゃなかったらええで」
食べながら祐太郎さんが、照れ臭そうに笑った。
川面を渡る風が、前髪を揺らす。山と、川と、屋根の低い家々。
「不思議です」
「なにが」
「わたし、この町で見つかったんですよね」
箸を置いて、もう一度あたりを見た。
「なのに、何を見ても初めて来た気がして」
来ればどこかに、手がかりがある気がしていた。ハンカチの刺繍や、紙飛行機の折り方みたいに、景色のどれかが手を挙げてくれるはずだった。挙がらないまま、時間だけが過ぎていく。
祐太郎さんの箸が、少し止まる。
「見飽きてしまうよりは、よっぽどええ」
弁当の蓋に漬物を取り分けて、こちらへ差し出してくれた。
初めてばかりの世界を、この人はいつも、そういうふうに言い直してくれる。小さく笑って、蓋を受け取る。少しだけ、祐太郎さんのけいちゃんを食べたい気持ちになった。
*
午後は、集落のはずれの神社へと向かうことにした。
「この坂を越えたら、神社があるらしいわ」
スマホを見ながら、祐太郎さんが先を歩く。
その背中が、少し遠くなった。
わたしの足が、止まっている。
道の脇に、古い一軒家が立っていた。
雨戸は閉じきり、庭は夏草に埋もれている。表札は外されて、木の色の違う四角い跡だけが残っていた。今は誰も住んでいない家のようだった。
それなのに、なぜか目が離せない。
「夏織さん?」
祐太郎さんが振り返って、わたしの視線の先をたどる。
「知っとる家なんか」
「わかりません」
わからないのに、足が門のほうへ一歩出ていた。
「でも、足が」
言いかけた口の中に、鋭い痛みが走った。
今までで、いちばん深い。痛みに耐えきれず、両手で口元を押さえる。膝から力が抜けて、石の多い道に座りこんだ。指の間から温かいものがしたたって、乾いた土に丸い染みを作っていく。
――この傷は、この場所で何かを伝えようとしてる。
確信に近い思いがわたしの中に生まれる。けれど、そのことを祐太郎さんに伝えようとしても、激しさを増す痛みで言葉が出てこない。
「夏織さん!」
抱き起こされた肩ごしに、閉じたままの雨戸が見えた。
祐太郎さんの声が、電話の向こうの太郎さんを呼んでいる。太郎さん、夏織さんがまた、と。その声が、だんだん遠くなる。
薄れていく視界のまん中に、表札の白い跡だけが最後まで残っていた。




