第28話 8月18日 三つ目の印
古いアパートの二階の、一番奥の部屋だった。表札は、入居のときから空白のままになっている。
カーテンは、昼も夜も閉め切られていた。布の継ぎ目から差し込む街灯の光が、部屋の埃を細く照らしている。ほかの明かりは、点けっぱなしの古いテレビだけだった。空気は、飴の甘さと古い紙の匂いでよどんでいる。台所の流しには、洗って伏せた茶碗が一つきり。
画面の中で、1979年のニュース映像が流れていた。
白黒に近い粗い映像。集団下校の小学生の列。マイクを向けられて、早口でしゃべる大人たち。画面の下に、口裂け女の噂、と古い書体の文字が出ている。日付の表示は、1月26日。憶測はお控えください、というアナウンサーの声が、当時の言い回しのまま繰り返された。
映像は、何度も巻き戻されては再生される。擦り切れるほど見られたものらしく、ときどき画面に細い横線が走った。その手前で、リモコンを持つ手が毎回わずかに動く。
床には、本と雑誌が積み上がっている。
どの背表紙にも、口裂け女の文字があった。古い実話雑誌。都市伝説の研究本。子ども向けの怪談集まで、区別なく積まれている。頁の角が、付箋の代わりに無数に折られていた。年代の古いものが下、新しいものが上。崩れた山は一つもない。
壁は、一面が新聞の切り抜きで埋まっていた。
黄ばんだ46年前の記事と、白い今年の記事が、区別なく貼り混ぜられている。切り口は、どれも定規を当てたようにまっすぐだった。連続殺人。口裂け女。少年少女に広がる噂。暗がりでも、見出しの文字だけは拾える。その中央に留められた岐阜市内の地図は真新しく、折り目だけがもう柔らかくなっていた。
男が一人、その前に立っていた。
遠藤茂。
背中は曲がり、部屋着の襟は伸びきっている。歳は、60半ばに見えた。テレビの光が、その横顔を青白く照らしている。
男は長い間、壁の前を左から右へゆっくり歩いた。
ときどき足を止めて、切り抜きの一枚を指の背でなでる。
遠藤は、包み紙をむいて飴を口へ入れた。
棒のついた、琥珀色の飴だった。片側の頬だけを動かして転がすと、かり、と小さな音がテレビの音声の合間に混ざる。数を数えているような、規則正しい音だった。灰皿には、舐めきった棒が何本も同じ向きに並べて置かれている。その列の端へ棒が一本足され、新しい包み紙がまた一つむかれた。
遠藤は、地図に顔を寄せた。鉛筆の細い線が何本も引かれ、消された跡の上に、また引かれている。
地図の上には、すでに二つの印が並んでいた。
赤いペンが、取り出される。
キャップを外す音。ペン先が、地図の一点に下ろされた。
三つ目の印が、ゆっくりと書き込まれた。丸は小さく、先の二つと同じ大きさだった。
書き終えると、遠藤はキャップを閉め、一歩下がって地図の全体を眺めた。飴の棒が、口の端で小さく上下している。
地図の横に、一枚の写真が貼られていた。
女性の写真だった。
遠藤はそれを、画鋲ごと丁寧にはがした。画鋲は、地図の隅の決まった場所へまっすぐ刺し直される。
しばらく、手の中の写真を見ていた。テレビが一度、古い天気予報の音楽に変わって、また事件の映像へ戻るまで。光が明るくなったり暗くなったりするたび、写真の白い面が点いたり消えたりした。
それから、部屋着の胸ポケットへ写真をしまい込んだ。しまった胸の上を、手のひらが一度押さえる。
テレビの中では、46年前の岐阜がまだ騒いでいる。その光に照らされた横顔は、まばたきもせず地図の三つ目の印を見ていた。
飴の音だけが、暗い部屋に続いていた。




