第27話 8月18日 2か月前の川
昼をはずれた蕎麦屋に、客はほかにいなかった。漣の行きつけらしく、注文は座る前に通っている。
窓ぎわの席で、漣はざるそばをすすっていた。
向かいで、太郎がきつねうどんを食べている。
右手には、薄い手袋をつけたままだった。箸はその右手で使っているが、箸先の運びがいつもより慎重だった。
「美琴ちゃんから帽子の男の件、聞いたか?」
「ええ、あと一人で近づかないようにも」
「あの子はよう動くわ」
「止めても聞きませんからね……」
「せやから、止めるより先に手を打っとくんや」
漣は鼻を鳴らして、背広の内から折り畳んだ地図を出した。
机の上でひらかれたのは、古い市内地図のコピーだった。黒い丸の上に、赤い丸がほとんど重なって並んでいる。
「46年前に、同じ手口の事件が三件起きとる」
「1979年……」
太郎の箸が、止まった。
柳ケ瀬庵に積んだ郷土誌の、付箋だらけの年だった。その年が、警察の地図の上でも同じ顔をして待っている。
漣は地図をたたんだ。
「そのときの犯人が、遠藤茂という男や。無期やったが、今年の1月に仮釈されとる」
遠藤茂。
太郎は黙って、湯呑みを見つめた。46年、紙の中で眠っていた事件に、生きている人間の名前がついた。
「釈放が今年の1月、ですか」
「そうや」
「口裂け女の噂が戻り始めたのも、ちょうどそのころでしたね」
46年前に三人の口を裂いた男が、この1月から同じ街のどこかで息をしている。噂の再燃と、三つの死体と、仮釈放の時期。偶然と呼ぶには、あまりに出来すぎていた。
「捜査はできないんですか?」
「仮釈放に判を押した側から、圧がかかっとる」
漣はそばをすすって、箸を置いた。
「物証がない限り、あいつには近づけん」
仮釈放の判断には、判を押した人間の名前が残る。釈放を認めた男がまた事件を起こしたとなれば、面子をつぶされる者が何人もいる。漣の声は、その手の話に慣れた苦さをしていた。
「令状は」
「物証が先や。順番は変えられん」
漣が、懐からメモを出した。
「美琴ちゃんの手柄や。一件目の犯行時刻が割れた」
差し出されたメモには、短くこう書かれていた。
『6月17日 21時〜22時』。
遺体は当日深夜の大雨でな。解剖でも、そこまでしか出せんかったんや
「事件当日は大雨やったからな。損壊がひどくて、胃の内容物から22時までに殺されたとしかわからなんだ。ただ、21時ごろに美琴ちゃんの同級生が不審な男に声をかけられたらしい。おそらく獲物の物色や」
漣が帽子をかぶるジェスチャーを交えて話す。
「物証さえあれば堂々と遠藤を取り調べできる。やれるか?」
「十分です。このあとすぐにでも」
太郎はきつねうどんの揚げを一口で食べ、残りの汁を静かに飲み干した。
*
長良川の河川敷は、草が伸び放題になっていた。
2か月前の規制線の切れ端が、杭に一つ、色を失って結ばれたまま残っている。鮎釣りの竿が二本、ずっと遠くに立っていた。人払いの要らない距離だった。
太郎は和傘をたたんで、草の上へ置いた。
千鳥足の九歩が、伸びた草を踏んでいく。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
指先が、空に九本の線を切った。最後の一歩が、強く踏み下ろされる。
式盤が、回った。
「丁巳の亥の初刻、人定の時」
太郎の目が、ひらかれた。
2か月前の夜を、その目が何の形で見ているのかは誰にもわからない。太郎は草をかき分けて、ゆっくりと進み始めた。夏草の匂いが、足元から立ちのぼる。
足が止まったのは、踏み固められた土の上だった。
膝をつく。手袋の左手が、指先で土をかき分けていく。乾いた表面の下から、湿った土の色が出てきた。
指が、小さな固いものに触れる。
太郎はそれを拾い上げて、丁寧に土をぬぐった。
裏側の金具が、鈍く光っている。
太郎はそれを手のひらにのせたまま、まばたきもせずに見ていた。それから右手を袖の内へ入れて、動かなくなる。川の音だけが続いていた。
息を一つ整えてから、太郎は立ち上がった。
土手の上で、太郎は証拠品の袋を差し出した。
のぞきこんだ漣の眉が、寄る。
「……歯か」
「差し歯、ですかね」
漣は袋を、光にかざした。
「捜査側の見落とし、やな」
「土に踏み込まれていましたから」
「お前には、見えへんもんが見えるってわけや」
「そういう商売なので。でも、僕に見えるのはここまでです」
漣は袋を、握りしめた。
「なんにせよ、すぐに鑑識に回す。また連絡するわ」
「漣さん」
「なんや」
「これが当たったら、そのあとは早いですか?」
「あとは任せえ」
土手を駆け下りていく漣の背中が、遠ざかっていく。振り返りもしなかった。
太郎は左手で和傘をひらいて、歩き出した。
右手は、袖の中に入れたままだった。




