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第26話 8月18日 目撃者

 盆明けのグラウンドに、金属バットの音が響いていた。


 日は高く、土は白く乾いている。掛け声と、ボールの跳ねる音。ソフトボール部の練習は、午前のうちから熱を帯びていた。

 フェンスの外に、ハンカチで日差しから肌を守ろうとしている美琴が立っている。


 後輩からの又聞きが回ってきたのは、ゆうべ遅くだった。そのことを知ってから、今朝までが長い。手の中のスマホには、そのメッセージが出たままになっている。


 『美琴 後輩に聞いたんやけど帽子をかぶった変な男見たってホント?』

 『千佳 ホント!めっちゃ怖かったから!』


 何度読み返しても文面は同じで、読むたびに重くなっていく。帽子の男が、実在した。その一行だけで、自分の予感に外れてほしいという願いが浮かんでくる。


 練習の輪から、水筒を持った部員が駆けてきた。同じクラスの野宮千佳。日に灼けた笑顔が少しまぶしい。去年の球技大会からの付き合いで、オカルトの話にだけは付き合いが悪い。それでも頼むと、結局は付き合ってくれる。


「ごめんね、お待たせ」

「ううん、大丈夫。それよりさ」

「どうせまたオカルトでしょ、好きだねぇ」

「うん、当たり。……で、ほんとに見たの?」

「見た見た! 見たっていうか声かけられたもん」

「そうなん?」


 なるべくいつもの調子で相槌を打ちながら、指はもう手帳のページを開いていた。


「川沿い走っとったら変なおじさんに声かけられてさ、立ち止まって返事したら口裂け女って知っとる?って」

「口裂け女!?」

「気持ち悪いやろ? 思いっきりダッシュして逃げたわ」

「顔は」

「見えんかった。帽子で隠れとって。声だけ、なんか普通やった」

「普通って」

「道でも訊くみたいな感じ。それがいちばん気持ち悪かった」


 美琴は、一度だけ迷った。見せれば、千佳もこの件の内側に入る。それでも、確かめずに帰る道はない。

 スマホの画面を、切り替える。室外機の奥から出てきた、あの帽子の写真。


「それってこんな帽子じゃなかった?」

「うーん……確かにそんな感じやったかも。すごいよれよれのやつ。ていうかメッセで写真くれたらよかったのに」

「あんまり勝手に送ったりできやん写真でさ。ちなみにいつ?」

「確か遠征から帰ってきた日やったから……」


 千佳はスマホを出して、カレンダーをさかのぼった。


「6月の17日。長良橋の下のほう」


 6月17日。


 美琴の顔から、すっと血の気が引いた。

 一件目の人が殺されたとされる夜だ。そしてその翌朝、夏織さんは八百津の山の中で見つかっている。ノートに書いた二つの日付の上に、三つ目が重なった。


「……ちなみに何時かも覚えてる?」

「夜の9時くらい。結果が悔しすぎてさ、帰ってすぐ走りに出たから」


 即答だった。負けた日の記憶は、細かい。

 手帳に時間を書き込む指に力が入りすぎて、九の字が少し歪んだ。


「なあ、やっぱり口裂け女の噂となんか関係あるん?」


 千佳の声は、まだ半分面白がっている。まだ取り返しのつくうちに、帰さなければいけなかった。


「それは、まだわかんない」


 何の関係があるかわからないという意味では、嘘ではない。


「ねえ千佳。しばらく、夜に一人で走るのやめられん?」

「でも、たぶん私逃げ切れるで」

「それでも!」


 千佳は少しだけ真顔になって、それから、はいはい、と笑った。

 ホイッスルが鳴って、給水の輪が崩れた。またね、と手を振って戻っていく背中を、美琴はフェンスごしに長く見送った。


 その足で、美琴は学校前から市バスに乗り、漣のもとへと向かった。


 *


 昼前の県警の受付は、冷房がよく効いていた。用件を訊かれて、漣(さざなみ)さんに、としか言えない。それでも取り次いでもらえた。


 ロビーの長椅子に、座っては立ち、立っては座った。手帳は、両手で胸に抱えている。

 奥から、漣が出てきた。その前に、美琴は手帳を突き出す。


「なんや、これ」

「目撃者がいました! 6月17日の夜9時。長良橋の下で」


 漣が、手帳をひったくる。


「似た帽子の男が、私の同級生に声をかけてます」


 ページの上を、漣の目が二度往復する。二度目はゆっくりだった。読み終えた顔が刑事のそれに変わるまで、一瞬もかからない。


「……美琴ちゃん。首突っ込むんはここまでやんな?」


 やんな、の念の押し方に、叱る色はなかった。


「あとはお任せします。でも千佳のことをちゃんと」

「わかっとる。連絡先と住所、わかるか?」


 漣は、自分のノートを美琴へ渡した。

 美琴は千佳の名前と連絡先を、丁寧な字で書き込んでいく。名前を書くとき、ごめんね、と心の中で言った。巻き込んだ以上、守ってもらう手配まで自分でするのが筋だと思った。


「あの、この子」

「言わんでええ。守り切る」

「まだ何も言ってませんけど……」

「顔に書いてあるわ」


 漣の声は、低くて、まっすぐだった。

 美琴は、深く頭を下げた。正座のときと同じ、勢いのあるお辞儀だった。

 頭を上げると、漣はもう受付の電話を借りている。その早さが、何よりの返事だった。


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