第24話 8月16日 見つかった町(夏織)
夜の9時をまわった住宅街は、もう静かだった。
どこかの窓からテレビの音が薄く漏れている。門灯に集まる虫の輪の下を、祐太郎さんと二人で歩いていった。
ケーキの箱は、胸の前で両手に抱えている。箱は見た目より軽いのに、落とせないものを持つ手は勝手に固くなった。歩幅が慎重になると、祐太郎さんもそれに合わせて遅くなる。夜道の並び方を、この半月でずいぶん覚えた。
今夜のことを、順番に思い返す。
歌。ろうそくの火。はちみつみたいな匂い。薄い明かりの中で外したマスク。恭介さん、という名前。「言えるうちに言わなあかんよ」という佐和子さんの声。しまう場所が、わたしの中に増えていく。
誕生日というものに、わたしは初めて触れた。
おめでとうございます、と声に出して言うのも初めてで、言い慣れない言葉は口の中で少し堅かった気がする。
それでも佐和子さんは、ありがとね、と受け取ってくれた。ケーキの甘さより、燭台の火のほうを、たぶんわたしは長く覚えている。「誕生日やし、なんか幸せな気がするやろ」と笑ったあの顔と一緒に。
「夏織さんってな」
不意に祐太郎さんが尋ねてきた。
「はい?」
「どっか、行ってみたいとこないんか」
足が、止まった。
「最近いろいろ大変やったやろ。気晴らしや」
気晴らし。
晴らすほどの晴れ間が、いまのわたしにあるだろうか。それでもあるかどうかより先に、この人はまず窓を開けてくれる。
「行ってみたいところ、ですか」
「そう。海でも山でも、名古屋でもええで」
「名古屋、って県が違うんじゃないですか?」
「電車で20分やで」
「そんなに近かったんですか」
「近い近い。夏織さん、たぶん岐阜のこともまだ半分も知らんやろ」
訊かれて、自分の中を探してみる。行きたい場所というものを、わたしは持っていただろうか。行ったことのある場所さえ、数えるほどしかない。
病院。この街の商店街。長良川の土手。柳ケ瀬庵。指を折れば、片手で足りてしまう。その少なさが、いまさら胸に落ちた。
マスクの上の目だけで、夜空を見上げる。この見方にも、すっかり慣れてしまった。
星の少ない街の空に、それでも一つ二つは光っている。あの名前も、わたしは知らない。知らないものの数なら誰にも負けないから、これから覚えられる数も、たぶん誰より多い。
「……それなら八百津町に、行ってみたいです」
口に出してから、それが答えなのだとわかった。
「八百津……」
「わたしが見つかった町なのに、何も覚えてないので」
わたしは、また歩き出した。
八百津。病院で最初に聞いて、わたしの名字になった町。やおつ、という音をベッドで転がした日は、どこにも触れなかった。名乗るたびに、あの二文字はわたしの一部になっていく。
あの日、わたしはどうしてあの山の中にいたのだろう。何を見て、何から逃げて、どこへ行こうとしていたのか。
警察の人も、病院の先生も、2か月かけて何も見つけられなかった。わたしを知っている誰かは、まだ一人も現れない。捜してくれている家族がいるのかどうかも。




