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第23話 8月16日 言えるうちに(祐太郎)

 閉店の作業は、三人でやるといつもの半分で終わった。


 夏織さんが店に来るのは4日ぶりで、エプロン姿を見るのも4日ぶりだった。ただいま、とは言わなかったが、棚を拭く手つきがそう言っていたようにみえた。


「無理せんでええで」

「拭くくらいはできます」

「そういうとこやぞ」

「そういうとこ、って?」

「……なんでもない」


 作業が済むと、店の灯りは半分だけ落とされた。


 テーブルの真ん中に、白いケーキが置かれている。

 ろうそくの火が、箱から出したばかりのクリームを照らしている。柳ケ瀬に昔からある洋菓子屋の箱だった。自分の誕生日に自分でケーキを頼む人を、俺は初めて見た。本数は聞かんといて、と先に釘を刺されている。


 ハッピーバースデイの歌を、俺と夏織さんで歌った。

 歌い出しはそろわず、夏織さんの声が半拍遅れてついてきた。途中からは、思ったよりちゃんとした合唱になる。マスクごしの歌声を聞くのは初めてだった。歌も、身体が覚えているものの一つらしい。


 歌い終わって、二人で拍手をした。

 佐和子さんはろうそくを吹き消さずに、一本ずつ抜き取って、脇に置いてあった燭台へ移していく。


「普通吹き消すんとちゃうんですか?」

「このろうそくの灯り好きなんよ。誕生日やし、なんか幸せな気がするやろ?」


 燭台の上で、小さい火が三つ並んだ。


「しかもアロマやで、アロマ」

「なんかはちみつみたいな匂いや」


 佐和子さんはケーキを切り分けながら、燭台をさりげなく自分の手元へ引き寄せた。夏織さんのテーブルの側だけ、明かりが一段やわらかくなっている。

 夏織さんが、そっとマスクを外す。


 薄い灯りの中で、傷は目立たない。フォークを取る手が、いつもの休憩室より少しだけ軽く見えた。


「……おいしい」

「そうやろ。うちの人も好きな店やったんよ」


 佐和子さんの目が、壁の写真立てへ動いた。

 写真の中で、エプロン姿の男の人が笑っている。

 何年も前から掛かっていて、俺はまだ一度も訊けずにいた。額の硝子は、いつ見ても曇り一つない。


「恭介いうんやけどね」

「キョウさん、ですよね」

「近所のみんなが、そう呼んどったわ」

「うちのばあちゃんも、そう呼んどりました」

「あら。ほんならうちの人、あんたのばあちゃんのけいちゃん食べとるわ」


 佐和子さんは、フォークを置いた。


「はごろもキッチンはな、あの人がやりたいって言い始めたんよ。私は、手伝うだけのつもりやったんやけど」

「どうして弁当屋やったんですか」

「そんなん、私も何回も訊いたわ。答えは、腹が減っとる人が一番正直やから、やて」


 手伝うだけのつもりが、いまは一人で店を回している。そこから先を、佐和子さんは言わなかった。


「……祐太郎さんは、会ったことあるんですか?」


 夏織さんが、小さく訊いた。


「いや、俺も会ったことは……」

「祐ちゃんのけいちゃん食べたら、嫉妬してたと思うで」


 そう言って、佐和子さんは笑った。それから店の中をゆっくり見回す。レジ、鉄板、弁当の棚。一つずつ確かめるような目だった。


「言いたいこと、山ほどあったんやけどな」


 誰にともなく、そう言った。

 佐和子さんはケーキを一口食べながら、「やからあんたらは」と続ける。


「言えるうちに言わなあかんよ」


 フォークを持つ手が、止まった。


 言えるうちに。


 言うべきことなら、俺にもある。胸の中の置き場所が変わったまま、まだ誰にも見せていないもの。言葉にする順番を、俺はまだ探している。隣を見ることは、できなかった。

 夏織さんは、マスクを膝に置いたままうつむいていた。


「……佐和子さん」

「ん?」

「……わたし、このお店が好きです」


 好き、の一音に、俺の肩が勝手に反応した。店の話や。

 佐和子さんは、その横顔をしばらく見て、笑った。


「それでええんよ」


 燭台の火が、三つとも小さく揺れた。


 *


 帰りぎわ、佐和子さんがシャッターを下ろし始めた。

 夏織さんは、少し離れた店先でケーキの箱を抱えて待っている。俺はシャッターに手を添えながら、声を落とした。


「佐和子さん。前に言っとった帽子かぶった男なんやけど」


 手が、止まった。


「なんかあったんか?」

「どんな帽子でした?」

「なんかよれよれの古臭いやつやったな」

「つばのとこ、折れとりませんでしたか」

「……そこまでは、見とらんわ」

「最近の連続殺人事件の犯人も、古い帽子を被っとったかもしれんって」

「もしかして……」


 言いかけて、佐和子さんは夏織さんのほうを一度見た。声の届かない距離を確かめて、続きは口にしなかった。


「祐ちゃん」

「はい」

「絶対、目を離さんといてね」

「絶対、離しません」


 俺は、店先の夏織さんの背中へ目をやった。街灯の下で、白い半袖姿の夏織さんがケーキの箱を大事そうに抱えているのが見えた。


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