第22話 8月14日 畳んだエプロン(夏織)
店を休んで、2日目の夜だった。
帰ってきてから、電気はつけていない。カーテンも引いたままだ。テレビは、つけるとあの話ばかりだから消してある。部屋が静かな分、外の音ばかり拾ってしまう。
戸を叩く音がした。
三回、少し間を置いてもう一回。祐太郎さんの叩き方だと、いつのまにか覚えていた。
開けると、仕事帰りのままの祐太郎さんが袋を提げて立っていた。部屋に上がってもらうのは、二度目になる。狭い部屋だけれど、片づけるものももともと少ない。
「めし、食えとる?」
「……少しは」
「少しは、って言うやつは食えとらん」
布団に半身を起こしたわたしの前に、袋から出てきたのは、けいちゃん弁当だった。ふたのすきまから、味噌の匂いが立つ。それだけで、部屋の空気が少し店に近づいた。
「たまには違うの食べんでええんか?」
「今は……これが食べたいです。ありがとうございます」
頭を下げると、弁当のふたの上にもう一つ、白いものが添えられた。
わたしが祐太郎さんを手当てした、大切なハンカチ。
洗って、きちんと畳んである。角と角が、きれいにそろっていた。アイロンまであててあるらしい。祐太郎さんの家の中を、少しだけ想像した。
「染み、増やしてしもたわ。ごめん」
謝ることでは、ないのに。切ったのは祐太郎さんの指で、押し当てたのはわたしの手だ。
ひらいてみる。
古い茶色の染みの隣に、薄くなった血の染みが残っていた。洗っても、落ちきらなかったのだ。二つの染みは、色の濃さだけが違う、よく似た形で並んでいる。
指のはらで、そっとなでた。
「ううん。うれしい」
「?」
祐太郎さんが、まばたきをした。
「増えるんです。わたしの大切な思い出が」
この染みの分だけ、わたしには思い出がある。名前をくれた誰かの染みの隣に、指を切った祐太郎さんの染みが並んだ。染み、と呼ぶから汚れになる。空っぽだったわたしにとっては、しるしだった。
「……ほんなら、もっと増やそや」
もっと。
その言葉を、口の中で転がした。先の約束をもらうのは少しこわくて、それ以上にうれしい。
「今のは、そういう意味やないで。指を切る話やないからな」
「わかってます」
「ほんまか」
耳が、赤い。
「はい」
返事をしたわたしの声も、少し笑っていた。
枕元で、スマホが鳴り出した。
画面に、はごろもキッチン、の文字が出ている。休んでいる身体が、先に小さく縮んだ。叱られるわけがないと、わかっているのに。
「……もしもし」
「夏織ちゃん。具合、どう」
佐和子さんの声だった。受話器の向こうの気配まで、あの店の匂いがする気がする。
「すみません。今週も、出られなくて」
「元気なんやったらそれでええんよ。シフトも気にせんでええからね」
「いや、そんなわけには」
「ええんやて。祐ちゃんにたっぷり働いてもらうで」
「それだと祐太郎さんに迷惑が……」
「あの子があんたのことで迷惑がることないわ。あ、そやったら一つお願いあるんやけど」
祐太郎さんは、聞こえないふりで弁当の包みを整えていた。整えるところは、もうないのに。
「なんですか?」
「明後日、閉店したら祐ちゃん連れて店においで。誕生日用にケーキ頼んでしもたんよ」
「誕生日ですか?」
「私のな。一人でケーキ食べるのって寂しいやろ?」
スマホを持ったまま、わたしは動けなくなった。
誕生日。
誰かの誕生日を祝ったことが、わたしにはない。少なくとも、覚えているかぎりでは。そして自分の誕生日も、わたしは知らない。
それでも、受話器の向こうの声はただ楽しそうだった。
「……わかりました」
「よかった。ほんならケーキ、大きいの頼んどいてよかったわ」
「もう頼んであるんですね」
「断られる前提で頼む人おらんやろ」
電話を切って、わたしは枕元のエプロンに目をやった。
畳んだままの、はごろも、の刺繍。
「なんて?」
「あさって誕生日を一緒に祝ってって。祐太郎さんも一緒に」
「したら誕生日プレゼント用意せなあかんな」
「何を渡すんですか」
「それを今から考えるんやろ」
祐太郎さんは、もう当たり前の顔をしていた。当たり前ではないのは、わたしのほうだ。
「わたし、本当に行ってもいいんですか?」
休んでばかりのわたしが、お祝いの席にだけ顔を出していいのか。傷が、またあの店でひらいたら。訊きたいことの形は、自分でもうまくまとまらなかった。
祐太郎さんは答えるかわりに、枕元のエプロンを手に取った。それを、わたしのほうへ差し出す。
「店に入った時、うちの子やって言われたやろ?」
エプロンを、受け取った。
2日ぶりの布の重さが、手のひらにちゃんとあった。はごろも、の刺繍が、指のはらに少しあたる。
「……はい」
返事は、それしか出てこなかった。それだけで、足りる気がした。




