第21話 8月14日 ポマード、ポマード(夏織)
柳ケ瀬庵を出たのは、夕方だった。
昼過ぎまで眠って、目が覚めたら、枕元に新しいガーゼと水が置いてあった。運び込まれた夜から、まる1日以上たっていたらしい。
「そんなに寝てたんですか」
「よく眠れる人は、よく治ります」
太郎さんはそう言ったけれど、口元のガーゼは前より大きくなっていた。
二晩お世話になったお礼を言うと、今日はゆっくり休むように、と送り出された。戸口で太郎さんは、夜のガーゼの替えと、痛んだらすぐ知らせることを指折り確かめさせる。子どもにするみたいなやり方が、少しおかしくて、少しありがたかった。
祐太郎さんは店のシフトが入っていたようで、途中まで一緒に歩いて、角で別れた。
「ほんまに一人で大丈夫か」
「大丈夫です。歩けます」
「そういう意味やないんやけどな」
別れぎわに何か言いかけて、結局「ゆっくりな」とだけ言った。何度も振り返るので、何度も頭を下げた。
一人になった帰り道は、足が重かった。傷はもう痛まず、そのことがかえって信じられない。
夕方の商店街は、いつもどおりの買い物客で埋まっている。それでいて、人の足が心なしか速い。
書店の前で、わたしの足も止まった。
ラックに並んだ週刊誌の、大きな見出しが目に入ったからだ。
『岐阜 連続殺人 よみがえる口裂け女』。
白と赤の太い文字だった。立ち読みの主婦が、そのページを開いたまま動かないでいる。隣で、会社帰りの男の人も同じ雑誌を手に取った。どちらも、怖いものを見たい顔をしている。
活字になったその名前は、美琴ちゃんのノートで見るよりも、ずっと不気味に見えた。
ランドセルの小学生が二人、わたしの横を走り抜けていく。
「ポマード、ポマード」
「三回言わんと、追いかけられるんやて」
「なんで三回なん」
「知らん。三回なんやて」
笑いながら、遠ざかっていく声。
あの子たちにとっては、ただの遊びなのだ。わかっているのに、ポマードという音の形だけが、耳の奥に引っかかって取れなかった。
スマホをのぞき合う高校生たちが、店先にたむろしていた。画面の光が、三つの顔を下から照らしている。
「これ、岐阜の公園やって」
「マスクの女に、追いかけられた子おるらしいで」
「マスクなんか、みんなしとるやん」
「そうやけど、なんかこう、目つきが違うんやって」
わたしは、自分のマスクの位置を直した。直す必要なんて、なかったのに。布の下の傷あとが、見られてもいないのに、見られている気がする。
うつむいて、歩く速さだけを上げた。誰もこちらなど見ていないのに、アーケードを抜けるまでの数分が、いつもの倍に感じられた。
アパートの階段を上がる足音が、自分のものではないみたいに聞こえる。部屋の前で、鍵を出すのに手間取った。
そしてわたしは部屋に入って、カーテンを引いた。
昼間の熱がこもっている。窓を開ける気には、なれなかった。夕方の光が、布一枚の向こうに遠くなる。電気は、つけない。暗いほうが、部屋の中のわたしの輪郭も薄くなる気がした。
枕元に、店のエプロンが畳んだまま置いてある。休み始めてから、ずっとそのままだ。胸当てに、はごろも、と小さな刺繍がある。店に立てない日が続くほど、その字を見るのがつらくなっていく。
布団の横に座って、膝を抱えた。
わたしが眠っているあいだに、公園でまた人が亡くなっていた。目を覚ましたわたしに、太郎さんは隠さずそう教えてくれた。
噂が広まるほど、呪いは深まる。太郎さんの言葉が、頭の中で回っている。あの週刊誌の見出しも、高校生の画面の中の動画も、全部が口裂け女を語る声だ。
その噂を止める方法を、わたしは持っていない。わたしにできるのは、待つことだけだ。
窓の外から、子どもたちの声がした。
「ポマード、ポマード」
さっきの子たちだろうか。歌みたいな節がついて、笑い声が混ざって、路地を通り過ぎていく。
耳を、ふさいだ。
手のひらの内側で、自分の鼓動だけが大きくなる。それでも歌は通り抜けてきた。楽しそうな声のまま、わたしの傷の話をしている。
マスクの女、という言葉が、頭の中でわたしの姿と勝手に重なった。
口元が、熱くなる。
ガーゼの内側で、あの裂ける熱がゆっくりと目を覚ました。押さえた指の下で、布に赤がにじんでいくのがわかる。
畳に、赤い点が一つ落ちた。
二つ目は、落ちてこない。それだけが、救いだった。
恐れないこと。
その約束を思い出すだけで、精いっぱいだった。
カーテンの向こうで、夕方が暮れていく。
ポマード、ポマード。
歌は、まだ続いていた。




