第20話 8月14日 戌の正刻
朝の児童公園は、静まり返っていた。約束どおり、人払いは効いている。規制線の外に、立ち止まる人の姿もない。
規制線の内側に、鑑識の姿はもうない。砂場のふちで、昨日の投光器の脚あとだけが四角くへこんでいる。ベンチの前の地面に、人の形をしたテープが白く残されていた。
その前で、太郎が目を閉じて立っている。
畳んだ和傘が足元に置かれている。今日は手に、薄い手袋をつけていた。
規制線の内側には、漣と長屋、それに制服姿の美琴がいた。
「漣さん。いいんですか?」
長屋が、声をひそめた。民間人が二人、現場の内側にいる。手帳に書けない朝だった。
「ええんや、長屋。下がっとれ」
「でも、あの子は高校生じゃないんですか?」
「あの子を止められるんやったら、お前が止めてみい」
長屋は、口をつぐんだ。美琴はノートをかまえて、もう人型のテープの位置を書きうつしている。
太郎が、ゆっくりと歩き出した。
千鳥足のような、歩みだった。指先が、朝の空に九本の線を切っていく。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
長屋が息をのんで、一歩下がった。
九歩目が、強く踏み下ろされた。
両手が、式盤を回す。地盤の四角の上で、天盤の丸がゆっくり回った。乾いた木の音が、朝の公園に小さく立つ。
「甲寅の戌の正刻、黄昏の時」
太郎の目が、ひらかれた。
その瞳が何を見ているのかは、誰にもわからない。太郎は人型のテープを見下ろし、それから顔を上げてフェンスの外へ視線を伸ばした。見えない糸をたどるように、歩き出す。
三人が、黙ってあとに続いた。
*
公園の裏手に、細い通路があった。
短い階段を上がった先で、古い雑居ビルの壁に沿って室外機が並んでいる。太郎の足は、その一台の前で止まった。
一瞬だけ苦しげな表情を見せてから、太郎は右手を袖の内へと隠した。
しばらくしてから太郎はしゃがみこみ、室外機の脚の奥をのぞいた。
左手が、暗がりから何かを引き出す。
つばの折れた古い帽子だった。挟まり方は浅く、昨日今日のものに見える。
「帽子……ですか?」
美琴が、のぞきこむ。
あとからついてきた漣が、公園のほうへ目を移す。通路の柵ごしに、ベンチも人型のテープも見下ろせた。
「……公園はのぞけるな」
「ここから獲物を物色してたんでしょうか?」
「いや……多分逆や」
「逆って、どういうことですか」
「言うたら、お前の頭がそっちに寄る。今は見たもんだけ覚えとけ」
漣は短く舌打ちをして、それ以上は言わなかった。長屋は納得しない顔のまま、手帳に通路の位置を書きつけている。
太郎が帽子を裏返すと、内側の布に汗の染みた黒い輪が残っていた。
「前の鏡と違うて、こいつは足がつくかもしれん」
「ずいぶん長く、かぶられていたようです」
「新しいのを買う金がないのか、これがええのか」
「後のほうだと思います。買う金がない人は、こんなに丁寧に洗いません」
太郎の指が、折れたつばの癖をなぞった。
「よっぽど慌てて逃げ出したみたいやな」
漣は腰を伸ばして、太郎のほうへ目をやる。
「さっきの儀式、か?……見とる分にはただの酔っぱらいのマネやのにな」
憤慨したように美琴が腰に手を当てて漣に詰め寄る。
「酔っ払いじゃないです。反閇といって、陰陽道では正式な」
「もうええ、もうええ」
美琴の解説を漣が両手で止めた。その後ろで長屋がこっそり耳をふさいでいる。
それを、美琴は目ざとく見つけた。
「あれ、長屋さんってもしかして怖い話とか苦手ですか?」
「そ、そんなことないです!」
「じゃあ、続けていいですね。さっきのは式盤展開と言って呪いの残滓を」
「ぎょ、業務上必要のない知識です!」
漣がため息をついて証拠品の袋を広げ、あごで帽子を示した。
美琴は帽子を入れる前に、スマホを構える。
「太郎さん。ちょっと動かないで」
帽子を持つ太郎ごと、何度もシャッターが切られた。
「美琴ちゃん。ネットに上げたら承知せんぞ」
「上げませんよ。目撃証言、漣さんと長屋さんだけじゃ大変じゃないですか?」
「……言うようになったな」
漣は鼻を鳴らして、帽子を袋へ収めた。
「太郎、よう手綱握っとけよ」
「もっぱら握られているのは僕かもしれません」
漣が、長屋を振り返る。
「おい長屋。昨日の晩、この辺りにおった不審者を洗うぞ」
「はい!」
返事の声は、もう裏返っていなかった。
*
夜の柳ケ瀬庵で、太郎は美琴の送ってきた写真を見比べていた。
机の上には、つばの折れた帽子が角度を変えて何枚も並んでいる。持ち主の年月が染みて見えた。
「夏織さん、しばらくお店お休みするそうです」
太郎が、写真から目を上げる。
「噂が広まってきてるからね。多分傷も深まってるはずだ」
「あの人、何も悪いことしてないのに」
美琴の声が、少しとがった。
「口裂け女の呪い、か……」
「犯人が捕まらないと、止まらないんですよね」
「今のところ、それしか思い当たらない」
「思い当たらないって、ほかにも道があるかもしれないってことですか」
「あるかもしれない、とは思ってる。ただ、それを見つけるには、まだ情報が足りなさすぎる」
美琴が、太郎の手から写真を迷いなく取り上げた。
「この帽子をかぶった人、私も探してみます」
「みこちゃん、止めても無駄なのはわかってるけど」
太郎は、湯呑みを置いた。
「見つけても、絶対に近づいちゃだめだよ」
いつもより、低い声だった。
「……はい」
美琴は写真を胸に抱えたまま、真剣な面持ちで返事をした。




