第19話 8月13日 袖の中
夜更けの柳ケ瀬庵に、土間から電話の音が鳴った。鳴りはじめの一音で、太郎は帳面から顔を上げる。
机には、開いたままの帳面と古い郷土誌が積まれている。付箋は、46年前のページばかりに増えていた。
深夜の電話が良い報せだったことは、一度もなかった。
太郎は嫌な予感を振り払うことができないまま受話器を取った。
「太郎。三件目が出た」
漣の声は、低かった。
「……手口は?」
「同じや。明日の朝、現場来れるか? 人払いはしとく」
「わかりました」
人払い、の一言に、漣の腹の決まり方が出ていた。刑事が得体のしれない拝み屋を現場に入れる。書類にできないことをわかりながら、それでも漣はすがった。
「お前にしか見えんもんが、あるはずや」
「……ええ」
「今度は若い女や。二十歳そこそこやと」
その口調に怒りがにじんでいる。
「頼むわ。これ以上はもうやらせん」
受話器の置かれる音が、深夜の土間に小さく響いた。
部屋に戻った太郎は再び整理した資料に目を落とす。
鏡。矢内明義。日付。並んだ字は、まだ互いにつながらない。
その下に、今夜の日付だけを書き足した。
祐太郎が夏織を背負って駆け込んできたのは、ゆうべ、日付の変わる少し前だった。土間に膝をついた祐太郎の背中で、夏織は目を閉じており、マスクは、血で重くなっていた。
太郎にできる手当てをひと通り施したものの、眠りにつくまでには長くかかった。眠る間際に一度だけ、ごめんなさい、と夏織は言った。
それきり、目を覚まさない。
太郎が立ち上がって、奥の間の襖を音を立てずに引く。
畳の上に、布団が一組敷かれていた。豆電球のあかりだけが、天井の隅で灯っている。
夏織が、眠っている。疲れや不安もあったのだろう。眠りは深いらしかった。
口元には、白いガーゼが当てられている。その真ん中に、赤い染みがにじんでいた。さっき取り替えたときよりも、また少し広がっている。熱はなく、脈も乱れてはいない。それなのに口元の傷だけが、静かに広がっていく。
枕元に、祐太郎が座っていた。
帰るように言っても、動かない。途中で一度だけ、祐太郎は太郎に深く頭を下げた。すみませんでも、お願いしますでもない、ただの深い辞儀だった。
「祐太郎さん。少し休んでください」
「……休んどります」
「ならせめて横になってください」
言いながら太郎は座布団を二枚押し入れから出し、祐太郎へ渡す。
「一つだけ、訊いてもええですか」
「なんですか?」
「この人が誰かから呪いを受けるような人には思えやんのです。なのに、なんで……」
太郎は答えを探したが、返せる言葉はまだ持っていなかった。
「僕にも、まだわかりません」
沈黙が二人の間に流れる。だけど、と言って太郎は襖に手をかける。
「依頼を受けた以上、夏織さんの呪いは解いて見せます」
祐太郎はそれきり黙って、また枕元へ向き直った。
漣からの電話の内容を、太郎はまだ伝えていない。恐れないことを約束させた口で、恐れの種を運ぶことになる。
依頼を受けてから、まだ6日。ガーゼは二度血に染まったにもかかわらず、まだ手がかりすらつかめていないのだった。




