エピローグ:その後に起きた事ども
新選組加入を決めたのは、伊東甲子太郎以下、三樹三郎・篠原泰之進・内海次郎・加納道之助・大村安宅・中西登・元井和一郎の八人。
大森の旅籠に集合して、そこから東海道を目指す計画だ。
大蔵たちが品川の大木戸まで来たとき、朱の陣笠をかぶった中沢良之助が、ひとり見送りに現れた。
「決心がついたんですね」
中沢の問いに、伊東は静かに頷く。
「そして貴方は、江戸に留まることを選んだ」
清河八郎亡き後、中沢良之助らは新徴組として江戸の治安を守ることになった。
京都に残った「新選組」が後に歴史の表舞台を飾る一方で、
中沢ら「新徴組」は、江戸の治安を粛々と守り続けた。
江戸市中を巡邏する彼らの様子を称して、江戸市民は「お巡りさん」と呼び、絶大な信頼を寄せた。
彼らの通称は、その後警察機構へと引き継がれる。
「次は京で、あるいは―」
中沢の言葉を背に、伊東は東海道へと踏み出した。
大森までやってくると、旅籠寿留賀楼で合流した篠原泰之進が伊東に耳打ちした。
「実は窪田治部右衛門様から忠告がありましてな。神奈川奉行はまだフランス人殺害の捜査をあきらめていないらしい。間道には非常線が張られているので、避けるようにとの由」
「ではどうします?」
「正面から関所を通れと。配下の菰田という男に言い含めてあるそうです」
「わかりました」
大蔵はそう言うと、大村安宅を呼び寄せた。
「大村くん、君は先触れとして京の新選組に接触してほしい。神奈川を抜けるときは念のため、間道を行きなさい。我々は此処で残りの者を待ち、全員揃ったら君の後を追おう」
「わかりました」
大村が旅支度を始めると、篠原は慌てて伊東に詰め寄った。
「どういうつもりです?」
大蔵の唇が、薄く歪んだ。
「彼はイギリス人に顔を見られているし、公使館との火種にもなりかねない。そうなれば、さすがに窪田殿も我々を切り捨てるでしょう。大村くんには生贄になってもらいましょう」
眉一つ動かさない伊東を見て、篠原の背筋にゾクリと悪寒が走った。
「い、致し方ございませんな」
だが、その計算に私怨が混じっていることまでは、篠原も気づかなかった。
「アンリ・カミュの死に関わった者のうち、残るは佐野とかいう狂犬だけか。まあいい。血の気の多い者は、いずれ捨て駒として何かしら使い道もあろう」
案外素直に引き下がった篠原の横顔を眺めながら、大蔵は独り言ちた。
やがて大村を除く七人が寿留賀楼に集うと、そこに藤堂平助を加えた一行は、まず神奈川宿を目指した。
関所に差し掛かると、そこには篠原や加納のかつての上司・菰田元治が立っていた。
「話は聞いている。行け」
菰田は伊東に短く告げると、加納に向き直った。
「命拾いしたな。間道を行こうとした大村が、さっき捕まったそうだ」
加納道之助はそれを聴いて篠原の肩をつかんだ。
「引き返しましょう!」
大村安宅は、曲者ぞろいの仲間の中では良い意味でも悪い意味でも「普通の男」で、加納とは気が合った。
だが、篠原はそれを認めなかった。
「…だめだ。いま行ってどうなる」
「しかし!」
加納はすがるように伊東を見たが、伊東も無念そうに首を横に振ってみせる。
「残念だが、篠原さんの言うとおりだ」
加納の生真面目な正義感に、もはや伊東はまともに取り合う気もなかった。
加納は、篠原が保身のために仲間を見捨てたのだと決めつけている。
しかし、時に権力に屈し保身に走る弱さは、ごく平均的な人間像であり、それを以て篠原を悪人と断じるのは早計だろう。
彼が攘夷の実現に傾ける情熱に嘘はないし、もちろん剣の腕も立つ。
むしろ、ある意味でバランスのとれた篠原の感覚は、この先、目的を遂げるうえで役に立つはずだと大蔵は計算していた。
その後、奉行所に引き渡された大村安宅は、横浜の一件が露見し、この年の十二月廿日に切腹して果てたという。
元治元年十月二十七日。
江戸を発って半月、伊東らが京に着いたのは、禁門の変が起きて間もない頃だった。
鴨川の東岸、川端通にある「小川亭」で最後の宿をとった伊東たちは、その朝、旅支度を整えて玄関の前に立っていた。
「女将、お世話になりました」
伊東が声をかけると、若女将の貞が三つ指をついた。
「いいえ、またおこしやす」
昨日、日ノ岡峠を降りる頃には日も落ちていたため、大蔵はその朝、小川亭の見晴らしのいい窓から初めてどんどん焼けの惨状を目の当たりにした。
戦火の爪跡は未だ生々しく、都は焦土と化していた。
鴨川の向こう側は禁裏の南端から七条に渡って、真っ黒に地均しされていた。
「…京の景色は、想像していたのとはずいぶん違います」
過日、篠原泰之進が同じ場所に立って眺めた景色とは、何もかもが変わり果てていた。
貞の義母、女将の里勢は辛そうに頷いた。
「三月ほど前のことどす。蛤御門で長州と会桑が戦をやった時に、新選組が鷹司邸に放った火が瞬く間に燃え広がってしもて…見とおみ、あのザマどす。この宿も、もう少しで炎に呑まれるところどしたが、幸運にもこの鴨川の水が私たちを守ってくれたんどす。そやけど、いったい何人が死んだことやら」
火は鴨川に阻まれ、東岸にある小川亭はギリギリで難を逃れたが、街はようやく再建に手を付けたものの遅々として捗らぬ状態で、目の前にある対岸には焼け焦げた瓦礫がうず高く積まれている。
「逃げる長州が町に火を放ったと聞きましたが……」
「そんなん、官軍の流したデマどす!」
里勢は、幕府の「公式発表」など、まったく信じていなかった。
伊東は外に出て、対岸の景色を改めて眺めた。
目の前の焦土が、清河の焼き尽くすはずだった横浜の街とだぶって見えた。
藤堂平助が大蔵と肩を並べる。
「ひどい有様でしょう?」
「私の手に負えたものか少々不安になって来たところだよ…どちらがやったにせよ、こんなやり方は国力を削ぐばかりだ。これでは、異人どもの思う壺ではないか」
苦々しく呟き、貞を顧みた。
「どうやら私も、鴨川で死に水を取ることになりそうですよ」
「おや、縁起でもおへん。 私はずっとあなたが来るのを待ってたんどす」
伊東は困惑した。
「京は初めてなので、貴女とは初対面のはずです」
「それでもどす」
貞は、かつて阿部十郎が預けていった二丁の拳銃を伊東に差し出した。
「京は物騒どす。どうかこれをお役立てください。どこぞの浪人が置いていったもんどす。うちには無用の長物やし」
伊東は物々しい武器に一瞬戸惑い、それから静かに首を横に振った。
「もうそんなものは必要ないんです」
「そうかて…」
「どうぞ、それは大切にとっておいて、必要とされる方にお譲りください」
そう言って、伊東はふいと背を向け、宿を立った。
その拳銃は、やがて人を伝い坂本竜馬の手に渡り、寺田屋で彼の命を救うことになる。
黒縮緬を纏った背中を見送りながら、貞が呟いた。
「随分綺麗なお侍様やこと」
「ふん、どこぞの女に入れあげて色気づいとるんとちゃうか。近ごろの侍は、浮ついとる。ええか、貞。ふるあめりかに袖はぬらさじ!どすえ」
「なんどす?」
「女がよほど肝を据えんことには、この国はお終いや言うことどす」
「そやけど、その想い人が羨ましおす」
貞は笑った。
「止しとくれやす。年増後家の横恋慕なんぞ見とうもないえ」
里勢はそう言って、玄関の提灯を下ろした。
同じころ、江戸。
下谷の置屋、三州屋。
田島勝が鏡に向かって紅を引いていると、格子戸を叩く音と同時に、仕込みの少女が部屋に飛び込んできた。
「姐さん、手紙よ」
「なあに?騒がしいわねえ」
それは旅の途上にある大蔵からの便りだった。
開いてみると、そこには清廉な筆致で、ただ一首のみ認められている。
「忘れめや恋しきものをかり枕旅寝の夢に袖ぬらしつつ」
「なにこれ。まるで私が教えた『あの歌』への返歌みたい」
勝は呆れたように言って、窓から入る外光にその紙を透かした。
仕込みの少女は、勝の横顔を覗き込みながら、囃し立てる。
「姐さん、想われてるわねえ?」
勝の脳裏に、ふと大蔵が複雑な思いを抱いていたフランス士官の手紙が過った。
「ふんだ。誰のことが恋しいんだか、自分でも分かってないんじゃないの……。バカにして!大嫌い」
勝は唇を尖らせ、手紙をくしゃくしゃに丸めると、屑箱に投げ入れた。
(完)




