伊東甲子太郎 Part2
藤堂がいとまを告げた後、大蔵は一人部屋に戻り、畳に手をついたきりしばらくは身じろぎもしなかった。
「生きていた……」
姉が生きているという事実は、大蔵の中のすべてを書き換えた。
横浜で死んだ「琴」という名の女の残像が、ようやく消えていく。
隠遁か、あるいは水戸の政争に身を投じるか。
庄司に迫られた二択ではない、「三つ目の道」が眼前に開けていた。
荒次郎はいつも通り無遠慮に部屋に入ってくると、大蔵の肩に手をおいて言った。
「良かったな、兄上。しかし横浜で琴という名の女性がひとり、死んだことに変わりはない。そちらの琴の親兄弟は、我々と同じ苦しみを今も味わっているんだな」
大蔵は平静を取り戻し、背筋を伸ばして立ち上がった。
「その通りだ。お前はいつも正しい。お前が勝奴を思いやったように、私は市井の人々に思いを致さねばならんのかもしれん」
「なんだよ。気持ち悪いな」
「少し眠る。誰も部屋に入れるなと言っておけ」
「荒次郎、晴耕雨読の隠遁生活もどうやら終わりにする時が来たらしい。京へ上り、新選組に加盟する」
翌朝、道場に顔を出した大蔵の宣言に、荒次郎は跳び上がった。
「おいおい!それが兄上の言う三つ目の選択肢か?家名も財産も、せっかく得たものを何もかも投げ出して?正気じゃない!」
師範代の内海次郎、中西登が身を乗り出した。
「今度は置いて行くなどと言わんで下さいよ」
「もちろん、私もご一緒します」
「では今後は私の手足となり、共に働け」
大蔵は苦笑して、それから加納道之助に向き直った。
「それから、加納、君に頼みがある」
「なんでしょう」
加納は大蔵の目を真っ直ぐに見返した。
あの日、涙を浮かべていたその目には、もう迷いは感じられない。
――先生が何も言い訳をしないのなら、それは自分が知る必要のないことだからだ。
あの日のことはもう聞くまい。
自分は、卯梅への思いを振り切るため、どんどん望まない方向へ舵を切って、
フランス将校の暗殺にまで加担してしまったが、これで何もかもうまくいく。
そう思えた。
「何なりとお申し付けください」
「番所付下番の篠原殿とその郎党に、志を同じくするなら共に立てと伝えてくれるか」
「承知しました。しかし…」
「なにか、気になることでも?」
言いよどむ加納に、大蔵は腰を上げながら尋ねた。
加納は釣られたように立ち上がって、大蔵の眼を見据えた。
「一つ気がかりが。先生と行動を共にするのは願ってもない事ですが、首領格の篠原さんは、果たして信用に値する人物と言えるかどうか…」
「構わぬ。枯れ木も山の賑わいというからな。それに、私が欲しいのは、あの服部という男だ」
「ああ。三郎兵衛殿は、頼りになるお方です」
「では、頼んだよ」
大蔵は微笑み、加納の訴えるような眼を見てピクリと眉を上げた。
「まだ何か?」
「いえ、別に…。あの!先生は、報国に身を捧げる決意をされた。そういうことなんですよね?」
大蔵は、しばらく考えて、それから加納にだけ聞こえる声で応えた。
「…そうとも言えるな。もろとも船を沈める覚悟なれば、すなわち報国に身を捧げるとは言い得て妙だ」
その瞳には暗い決意が秘められているように見えた。
「それはどういう…」
「この腐り切った官府は、一度、灰塵に帰する必要があるということだよ」
その答えに加納がなおも戸惑っていると荒次郎がしゃしゃり出た。
「まてまて。私には声をかけんのか」
大蔵は意地の悪い笑みを浮かべて、荒次郎の表情を伺った。
「なんだよ、行きたいのか?京に」
「バカ言え。行きたくなどない。だが、世間ずれしていない兄上を一人で物騒な京にやるのは心許ないし、それに…向こうには、姉さんがいるかも知れんのだろう?付き合うしかないじゃないか」
大蔵は静かな笑みを浮かべた。
「ふ、頼りにしている」
荒次郎は照れ隠しに頭を掻きむしりながら視線を反らす。
「ま、伏見の酒も悪くないさ」
自室に戻った大蔵の後を、卯梅が追った。
「行かないでください!」
卯梅は泣きじゃくりながら訴えた。
「聴き分けてくれ。これは私一個人の問題ではなく、国の大事なのだ」
大蔵は出来る限り優しい声音を使って諭したが、卯梅は大蔵の袖を離そうとしなかった。
「違う!大蔵様は自分にも私にも嘘をついています!」
「どういう意味だ」
「大蔵様が京に行くのは、双子のお姉さまのためです。貴方は私やこの家よりもお姉様の方が大切なのです!」
大蔵の眉に苛立ちが覗く。
「くだらん。いいか卯梅、お前には大切な用事を託したい」
「…え?」
しゃくりあげながら卯梅は顔を上げた。
「母をこの屋敷に呼び寄せようと思う。私が帰ってくるまで、苦労を掛けるが母を見てやってくれるか」
卯梅は大蔵の袖から手を離し、しばらくじっと俯いていた。
やがて涙を拭いながら顔をあげ、切なげに大蔵の目をじっと見つめた。
「…は、はい。それはもちろん、喜んで」
卯梅にとってそれは、信頼の証であり、彼がこの家に必ず帰ってくるという担保でもあった。
そして、旅立ちの日。
道場の門の前に立つ大蔵を、卯梅は心細げに見送った。
出迎えに来た藤堂平助が、隊士たちに大蔵を引き合わせる。
「こちら、伊東大蔵先生」
「甲子太郎だ」
大蔵は、藤堂の紹介を正した。
「はい?」
「伊東甲子太郎。事に臨み、上洛の年、甲子に因んで名を改めた」
「新選組へようこそ、伊東先生。千人力を得た心地です」
眼に涙を浮かべる卯梅を見兼ねた荒次郎は、その肩を抱いて耳元で囁いた。
「義姉上、兄は言葉足らずで申し訳ないが、姉は、兄にとっての半身なんです。が、それは一生添い遂げると誓った夫婦の愛情とは、また別ものだ。兄上のことは私に任せてください。必ず無事に江戸へ帰しますから」
大蔵は、荒次郎が卯梅にひそひそと何か吹き込んでいるのを面白くなさそうに睨んでいる。
「ふん」
「荒次郎様…きっと、きっとですよ?」
哀願する卯梅の手を、そっと両手で包みながら、荒次郎はうなずいた。
「荒次郎ではありません。私も兄に倣って、鈴木三樹三郎と名を改めました。なぜだか分かりますか?兄はもう伊東家の人間だ。だから私が実家の家禄を継いだのですよ」
大蔵の思惑がどうあれ、つまるところ、この時、大蔵は選択を誤ったのだった。
誰と組むべきで、誰と組むべきでないのか。
彼は、清河八郎や芹沢鴨が御し切れなかった新選組という組織を見縊り、自分ならそれが出来ると過信したのである。
しかし一方で、彼にはその悲劇的な結末を覚悟しているような気配もあった。




