伊東甲子太郎 Part1
一方、大蔵にも、「その日」がやって来た。
元治元年(1864年)の甲子の年、九月。
高く澄み渡る江戸の空とは裏腹に、北関東の空の下では血の雨が降っていた。
天狗党に尊王攘夷運動の精神的支柱ともいうべき武田耕雲斎が合流して、幕府の追討軍との戦闘も激しさを増していた、まさにその頃。
「先生、お久しぶりです!」
道場の入り口で声を張り上げたのは、かつての愛弟子・藤堂平助だった。
若々しい笑顔は変わらないが、その額には生々しい刀の傷跡が増えている。
奥の間に通された藤堂は、いまや伊東道場の主となった大蔵、その弟の三木荒次郎と差し向いに座った。
「平助。…帰ったか」
「いやだなあ、違いますよ。用が済めば、すぐ京へ引き返します」
大蔵は額の傷を見て、目を細める。
「池田屋ではたいそうな活躍ぶりだったそうじゃないか。その傷は勲章だ」
歴史に名高い池田屋事件。
藤堂平助は、その修羅場に真っ先に飛び込んだ一人だった。
それから、まだ三月しか経っていない。
「ああ、これ? いやあ、剣の腕は先生仕込みですから。まあ、最後はやられちゃいましたけどね」
「あれ以来、うちの道場に来る客がお前のことをあれやこれや聞いてくるので、うるさくて叶わん」
藤堂は照れくさそうに笑い、傷を指でなぞりながら、ふとうつむいた。
「…尊王攘夷を掲げる連中と斬りあった傷です」
大蔵は少し眉を寄せた。
「その傷が疼く?」
藤堂は顔を上げ、表情を改めた。
「先生。奴らは都に火を放ち、あまつさえ帝を攫おうとした。奴らを斬ったことに後悔はありません!ですが…」
藤堂の胸のうちにある葛藤が、大蔵には見える気がした。
「…辛いか?」
藤堂はぎこちなく笑みを作った。
「こうやって忙しく駆けまわっていれば、余計なことを考えなくて済む」
「考えることを止めてはいけない。それはお前が大人になったということだ」
「いやはは、増長しちゃうなあ」
そこへ卯梅がお茶を運んできて、荒次郎の脇に腰を下ろした。
大蔵は、卯梅の方にちらりと視線をやってから話を戻した。
「別に褒めていない。その忙しい藤堂平助が何の用事だ」
藤堂は、“魁先生”の綽名に相応しく、ズバリと切りこんできた。
「今日お伺いしたのは他でもない、その新選組に一党を率いて加盟していただけないでしょうか」
「前置きもなしか。相変わらず、お前の言うことは訳が分からんな。それもお前らしいが」
大蔵は苦笑した。
その申し出に卯梅の顔色が変わったことに、誰も気づかない。
「…まさかお前に京へ招かれる日が来ようとは考えてもみなかったが」
「昨今、政局の中心は、なんと言っても京です。先生、どうでしょう?」
「無論、私も早晩京洛へ上り、攘夷の一助を担いたい気持ちはあるがね」
「奥歯に物が挟まったような言い方をするじゃないですか」
「表舞台への道筋をつけてくれたのは有難いが、しかし…それが新選組とは。一時は天狗党に加わろうとさえした私が、話に聞く近藤勇と相容れるだろうか」
渋る大蔵に対し、藤堂は熱を込めて語り始めた。
「近藤先生のことを、まるでご公儀の走狗みたいに言う者もありますが、伊東先生が考えているような頑迷な人物ではありませんよ」
「なにもそう決めつけてはいないが…」
藤堂は額の傷に触れ、そして決意を秘めた眼で大蔵を見据えた。
「いまの新選組に足りないのは“思想”です」
「それでもお前は、新選組を見限ることを考えなかった?」
「立ち上げの頃から関わってきたんだから、そりゃ愛着はありますよ。それに、池田屋からこっち、我々は攘夷思想から距離を置いているように思われがちですが、山南敬介先生のように勤皇の志も厚いお方だって中にはいる。だからこそ、先生を幹部として隊にお迎えしたい。先生が加わり、目指すべき理想を隊が共有出来れば、厳しい法度などなくとも、我々は単なる武力装置の枠を超えられると、オレはそう考えています」
荒次郎が舌を出し、目を剥いて大蔵の顔を覗き込む。
「オホ、いきなり幹部待遇だとさ?」
「お前は黙っていろ」
大蔵は茶化す荒次郎を厳しい眼で牽制し、藤堂に向き直った。
「一端のことを言うようになったな。お役目に入れ込んでいる」
「いけないでしょうか」
「無論…そんなことはないさ」
藤堂はふと声を落とし、少し寂しげに言った。
「親父に会ったんスよ、向こうで…」
「よかったな」
大蔵はようやく柔らかい笑みを見せた。
「別に何も良いことは起きなかったけど、先生、俺が迷ってる時に言ってくれたじゃないスか、血の繋がりは大事だって。あれ、効きましたよ」
「ふん」
「だからオレも手紙を書いたでしょう? 読んでくれなかったんスか?」
「…手紙?」
大蔵の眉がわずかに動いた。
そんな便りは自分の手元に届いていない。
勘の鋭い大蔵が視線を向けると、脇に控えていた妻・卯梅がさっと目を逸らした。
彼女は藤堂からの手紙を握り潰していたのだ。
それでなくとも近ごろは周旋活動に前のめりな大蔵が、姉のことを知ればきっと京に行ってしまう。
「オレ、京で先生のお姉さんに会ったんスよ」
大蔵の怜悧な頭脳が、一瞬、動きを止めた。
「…本当に? 間違いないのだな!?」
「ええ。正確には、しばらくの間、我々新選組と行動を共にしていました。当時はまだ、浪士組と言ったが」
「それで?琴はまだ京にいるのか!」
「少なくとも昨年の秋までは。ですが九月の末、深い霧の朝に、突然隊から姿を消したきり、その後の消息は途切れ途切れで…」
「あいつ…いったい何を考えているんだ」
姉の不可解な行動への苛立ちを覚えつつも、それ以上の安堵が大蔵を飲み込んだ。
藤堂は大蔵の顔を覗き込んだ。
「先生、どうでしょう?」
「…少し考えさせてくれ」
大蔵は震える手を押さえつけて、答えを保留した。
「もちろん。私は十月の中頃まで江戸にいる予定です。熟慮の上、よいお返事を期待しております」




