対決
蒸し暑い夜だった。
上野の山から吹き下ろす夜風が、血の匂いを孕んで頬を撫でる。
雁鍋屋「伊勢屋」を出た大蔵と毛内監物は、表通りを避けて路地の暗がりへ足を向けた。
その時、さっそく毛内監物がその能力のひとつを発揮した。
「つけられてます…一人。相当な手練れです」
大蔵は何も答えず、しばらく歩いた。
上野山下の路地は、迷路のように入り組んでいる。
立ち並ぶ家々の軒先には、商売を終えたばかりの行灯が弱々しく灯り、道端に捨てられたゴミや泥水が、月明かりを反射して鈍く光る。
そして大通りへ出る手前の店先で、ふと足を止めた。
闇の中から、一人の男が姿を現す。
「待て、鈴木大蔵。また逃げるのか」
真田範之助だった。
その瞳には執念の火が灯っている。
大蔵はわずかに肩をすくめた。
「これは手厳しい。だが、どうぞお好きに解釈すればいい」
「腰抜けが…!」
真田の手が刀の柄を握る。
抜刀は同時だった。
真田の剣が稲妻のように走り、大蔵の頬をかすめた。
血が一筋、顎へ流れる。
大蔵は半歩退き、刃を受け流した。
続けざまに真田の二の太刀が迫る。
大蔵は刀身でそれを受け、火花を散らしながら横へ払った。
その隙を逃さず、踏み込む。
刀と刀が絡み合い、互いの鍔が激しくぶつかった。
次の瞬間、大蔵の肩が前へ出る。
真田の体勢が崩れた。
大蔵は一気に間合いを詰め、真田の刀を弾き上げた。
「町道場の主一人倒せずして、どうやって黒船に立ち向かう」
大蔵は冷たく言い放った。
「そんな連中に担がれる帝もお気の毒なことだ」
「貴様…!」
真田が腰を落とす。
だが、大蔵の動きはさらに速かった。
瞬きをする間に真田の剣を叩き落とし、そのまま身体ごと突き飛ばす。
商家の鎧壁に激しく背中を打ちつけられ、
真田は唸った。
「…これだけの腕を持ちながら、貴様には己の信念に命を賭ける気概もないのか」
「気概? 気概だと?!」
大蔵の声が夜気を震わせる。
「共に水戸で学んだ旧友は、桜田門で斃れた!彼は国のために命を捨てたというのに、その結果がこの派閥争いか!話を矮小化しているのは、いったいどちらだ!」
その目には、剥き出しの怒りが宿っていた。
大蔵の切っ先が、真田の大きな眼の前に突きつけられた。
真田は返事に詰まり、壁にもたれたまま顔を歪めた。
口の端から血がにじむ。
そのときだった。
「伊東さん、やめろ」
背後から低い声が響いた。
振り返らずとも誰かは分かる。
「…中沢さんか」
大蔵は刀を構えたまま応えた。
「ずいぶん早かったな」
民家の影から現れたのは、新徴組の羽織をまとった中沢良之助だった。
「上野で怪しげな浪人の集まりそうな場所ならおおよそ見当はつく」
「ふん。お役目ご苦労なことだ」
大蔵はゆっくり刀を引き、鞘に納めると、冷ややかな眼で真田を見下ろした。
「この国に居座る異人を追い払ったところで、問題は何も解決しない。肝要なのは、日本が彼らに比肩する力をつけ、そのうえで打ち負かすことだ。そのためには何が必要か―よく考えることだな」
そう言い残し、大蔵は毛内監物を伴って中沢の脇をすり抜けていく。
「伊東さん!」
中沢は振り返らずに呼び止めた。
背後で、大蔵の立ち止まる気配があった。
「その意見は頂けんな。次に会うときは、敵かもしれん」
だが、応えは返ってこなかった。
遠く寛永寺の森からは、梟の陰鬱な鳴き声が聞こえる。
「参りましょう、先生」
毛内監物の静かな声に促され、足音は闇のなかへ遠ざかっていった。
残された真田は、痛む身体を支えながら立ち上がった。
「待て…!まだ勝負は…!」
「みっともないぜ。あんたの負けだ」
中沢の声が冷たく遮った。
「余計なお世話だ。関係のない者は引っ込んでろ」
「関係ならあるさ。お前たちをひっ捕まえに来た、庄内藩お預かり新徴組だ」
真田は壁にもたれたまま笑った。
「ふん、おまえも公儀の犬になり下がったか。いい加減目を覚ますんだな」
真田が構えようとするのを、中沢は軽く手で制した。
「一人で俺とやる気か?やめておけ。肋の折れてる相手など、片手で十分だ」
「…くっ」
中沢は目を閉じて薄く笑った。
「行け。伊東さんに免じて今日のところは見逃してやる」
真田は口元の血を拭い、刀を納めた。
「…伊東大蔵に会ったら言っておけ。ご立派なお題目を掲げたあんたに、いったい何が出来るのか、じっくり見届けさせてもらうとな」
そして真田もまた、足を引きずりながら夜の闇の中に消えていった。
しかし、このわずか二月後、
大蔵の道場にもほど近い水戸舟屋敷に潜伏していた真田範之助は、非業の死を迎えることになった。
踏み込んだのは、中沢良之助、沖田林太郎ら六名の新徴組隊士。
範之助は愛刀を抜き放ち、狭い座敷で獅子奮迅の働きを見せたが、衆寡敵せず、ついには幾条もの白刃に貫かれた。
享年三十一。
天然理心流開闢以来の大天才、北辰一刀流の麒麟児と呼ばれた男の、苛烈な生涯の幕切れだった。
そして、天狗党の乱は、八カ月以上に及ぶ闘争の末、鎮圧された。
伊東大蔵の不吉な予言は現実のものとなり、翌年の二月には、天狗党に加わった者のうち350人もの壮士が斬首されている。
大蔵が幼い頃、剣術修行のため遊学した水戸でも、藤田小四郎の失脚により保守派が台頭し、天狗党の家族までがことごとく処刑された。




